そこに入ると今でも分娩室はそのままで、過去の遺産が保存されたように、消毒したままの器械類やガーゼなども器械棚の中に残されている。新生児室には新生児用コットが整然と並び、壁には優しいディスプレイが架けられている。もう誰も訪れることなど無いはずなのに、そこに居るとあの頃の必死さを伴った喧騒と新生児の息遣いや声が聞こえてきそうだ。そして今にでもお産も帝王切開術だってできる様な錯覚にとらわれる。
当院による分娩の取り扱いが終了してから18年(2025年現在)が経過した。全てがあの時のままのナースステーションの棚に3冊の声のファイルが残されている。この時までに生まれた子供たちは、もうお母さんやお父さんになって、この声のファイルを残していってくださった方々の中にはお孫さんのお相手をして方もいるのでしょう。
ここに来るとなぜかこの温かき日々を懐かしく思い出すのです。
*文章中、個人名や日時などの情報は個人情報保護の視点からも文章内容の意味が変化しないと考えられる範囲で文章の変更あるいは削除させていただきました。
ファイルのご紹介は1、2通ずつとなりますが、年月などは順不同となります。
ファイル8、
出産に立ち会い…
分娩の日から4日が過ぎ、自分の手元には今月初めに買ったカメラで撮影し現像されたばかりの写真がある。自らの大きく膨れた腹部を両手でおさえ、覗き込むように見ている妻の写真から始まる十数枚である。中でも一瞬目を引くのが、今、生まれたばかりの赤ちゃんを片手に抱え添い寝する妻の写真である。眼を閉じ、指を咥えている赤ちゃんの隣で笑顔を作る妻の顔にはいつものような化粧は無く、その表情は陣痛の痛みに耐え続けた疲労が伺えるが、自然な笑顔にも思える。見れば見るほど妻に付き添って一部始終を見てきたためかそれまでの記憶が甦る。
夜中の1時から始まった波のように繰り返される陣痛の痛みに耐え続けている妻を見ていて20時間が過ぎた頃、漸く立ち合いのために分娩室へ呼ばれる。それまでに妻の背中を擦り続けていた自分の母に感謝の気持ちを感じた後、自分も分娩室に入る。
いよいよという気持ちと不安が嫌でも緊張してくる。分娩室では、先ず婦長さんが赤ちゃんの頭を見せてくれた。渦巻のところなので毛が少し立っていた。言葉では、お腹にいると言っても正直なところ実感が湧かないものであるが、目に見えてその存在があると言うのはあまりに衝撃的なことであった。その後は、妻がいきむたび、自分も合わせるように息を殺すようにしないと、こちらが苦しくなるような異様な空気を感じた。代わってあげたいとも思うがそれも出来ず、かける言葉も少なく、ただ祈るような気持ちで表情を伺う。そんな中でも院長先生と婦長さんは絶えず応援する声をかけてくれるため、妻もその言葉を信じて陣痛の波に顔を赤くしていきみを合わせる。やがて顔が現れ始めると覗き込むようにしていた妻もようやくその感動を味わっていた。目があり、鼻があり、口もあるそんな当たり前のことが嬉しい。そして体は一気に現れ、直ぐに泣き声が響き渡った。青白い肌、ぐるぐるとホースのようなへその緒、そして胎盤。全てが目の前にあり、生命のつながりを意識した。思わず涙が出そうになるが、ぐっと耐えた。自分の子供の前では絶対に泣かないつもりでいたが、さすがに目が熱くなった。その感動は間違いなく過去最大で、絶対に忘れない。
今回の経験は、出産において夫である自分自身の無力さを感じるものではあったが、現実存在する自分の子どもと、無事に出産した妻に対し今度は自分が守らなくてはいけない使命を感じさせる価値のあるものだったと思う。あくまで自己満足ではあるが、家族と言う一体感を感じた。そして最後に携わってくれた全ての人にお礼を言いたい。
声のファイル9、
扉の外で入室を待つ間、何をしていいのかわからず立ったり座ったり、何を考えるでもなくただ落ち着かない時間を過ごしていた。時々聞こえてくる妻のうめき声に身を緊張させながら待った。
入室。私は言われるままに、ベッドの横に立ち見守った。「がんばれ」。声にならなかった声が、二回、三回目のいきみとともに大きくなった。苦痛にゆがむ妻の顔と声。私の全身にも言いようのない力がわき上がってきた。その瞬間「生まれた!」勢いよく飛び出してきた赤ちゃん。すぐに、「おぎゃあー」という元気な声が聞こえてきた。何ともたとえようもない不思議な時だった。夢のような、宙に浮いているような一瞬だった。体だけが、なぜか熱かった。「女の子だよ」語りかけると、ニコッとほほ笑んだ妻の安心した顔を見て喜びがこみ上げてきた。そして、隣に寝かされた我が子に「がんばったねぇ」と話しかける妻の姿を見て、目頭が熱くなった。「俺も頑張るぞ!」そんな気持ちだったと思う。
命は大切なもの、頭の中では分かっていたけれど、我が子の誕生を自分の目で見て、その感激を味わって、あらためて一つの生命の尊さが身にしみた。私が生まれた時、私の親も同じ思いを味わってたんだなぁと思う。いとしい我が子を我が妻を大切にしていこう。
出産に関わって、そばにいるだけで何もしてあげられない父親だけれども、大きな仕事をやりとげた妻に、かけがえのない我が子に、これからの幸せを育んでいってあげることが私の仕事だと思う。19○○年12月29日を忘れない。