寄り道は時々

ベルリオーズと抽象画

このところ立て続けに抽象画の展覧会を訪ねた。ジュアン・ミロ展を上野で、パウル・クレー展を静岡でみた。両者ともキャッチフレーズには星座と言う単語が与えられた。ミロは、【夜空に描かれた希望ー「星座」が織りなす詩】であり、クレーには、【創造をめぐる星座】である。

画家が抽象画に何を求めていたのかは、ここでこの時に分かるものでは無い。それは、作者によって異なる表現をただただ見る時々で自分の心象にマッチしたとき、訴えてくるものが異なるからだ。多くの抽象画家が具象的作品を極めた後に抽象画に移行している。そのため、具象と抽象との間に描かれた表現には迷いとも言うべき世界が残されている。

ミロが書きたかった世界の抽象画作品には、時代が進むにつれてよいしょ、よいしょ、と言う声が聞こえてくる。やがて求めるものの表現が露になってくるのだ。それは、きっと画家が求め続けて書けなかったもの、光の表現なのである。

クレーにはまた違った印象を受ける。そこから感じる世界は明らかにミロとは異なる。求めるものが違うのだ。抽象になってまでも具象を感じさせる作品がある。具象から抽象への境界が不安なのである。抽象画といえども全ては形の中にあって当然とさえ訴えかけてくる。色彩さえまちまちに表現されてその中からは小さな機械音を伴う静けさだけが伝わってくるようだ。

再生を共通のテーマとすれば、リプロダクションを何で表そうとしたのか、ミロは確実に乳房であり、生後の状況を求め、クレーは繁殖、繫茂と言った生物世界を代表する性器なのだ。そして共通するテーマを光とすれば、ミロは天空を描くことであくまで光の表現を求め、クレーは矩形の中へ色を閉じ込め配列させることで光を否定した構造へと向かった。

しかし両者の共通する点はあくまで目であり、それは絵の中にイマージュされるように描かれることもあり、外から現実世界を見ている作者自身の目の表現でもある。

ふと、ベルリオーズが聞きたくなって、ひとりボリュームを上げて幻想交響曲を聞いた。

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