Chapter 2 ターシタンとノルコン その2
「ダ・イジ」、いつかグラビア写真で見たことがある原住民のような人が声をかけてきた。乳房の膨らみからは女性であることは直ちに判断できたが、今ここが何処なのかは判然と理解ができない。女性のまとう衣服は麻織りに似て、所々に綿糸と思われる糸で模様されている。なんだか子供の頃に教科書で見た縄文人のようだ。きっと気を失ってから縄文時代にタイムスリップしてしまったのだ。しかし、今会った女性は明らかに現代人の顔立ちだったし、清潔感さえ漂わせていた。
ターシタンは、明日になったら僕のいなくなったことに気づいて捜索隊が出動するだろうと思っていたが、ここが何処だか知らせることはできないことが分かっていた。ノルコンは、どうしているだろうか、きっと二日間くらいは、連絡が無くても気が付かないのかも知れない。
「ヤァ、眼ガ覚メタノカ」、「ココニ連レテ来ルノハ大変ダッタガ、心臓ガ動イテイタカラナ」、続いて顔を覗き込んだ男は、整った身なりをしていたが、着ているものは一緒に居る女性と同じだ。そのうちに寝かされているところには大勢の人がやってきた。皆、同じような体格で顔さえ似ているような気がしている。「ネェ、ネェ、イ・カ・イ」、「ドコカラキタノカナ」、子供たちは、ターシタンの着ているものを珍しがって「コレ何」などと引っ張り合っている。そこへひときわ威厳をたたえた人物がやって来て、「君ハ、ドコカラ来タノダネ、アノ森ノ中デ倒レテイタノヲココニ連レテキタ」、「シバラクハ、ココニ居テイイノダヨ」、
「飲ミ物ト食事ヲ用意シテアゲテクダサイ」と言い残して彼は帰っていった。人々の会話は流ちょうで言語的文化度は高いものと考えられたが、現在の日本人が話す多言語の中には分類できないけれど、時々混じる単語を連ねると主言語の日本語の流れを汲むものと考えられ充分に会話が継続できるのではないか。
話しかけられる言葉は、きっとこんなことを言っていると理解できた。「アナタハ大キナ木ノトコロニ倒レテイタノ、私ハ行クコトハナイケド、主人タチハトキドキ中ニハイッテ行クミタイ、向コウニハ、宇宙人ガ暮ラシテイルカラ会ウト戦争ニナルト言ワレテ、行ッテハイケナイコトニナッテイルノ、ダケドチカゴロハ探検ダッテ言ッテイクノヨネ、タマタマアナタノコト見ツケテ同ジ仲間ダト思ッテ連レテキタノヨ、マサカ宇宙人ニ見エナイッテ」、きっと此処はいつも遠くに見ていた密林の中に暮らしてきた人たちの集落なんだと確信し、幸いにして脳梗塞と思われた症状が体に残されていないこと、手足の運動も皮膚の感覚も出かけてきた時と変わりないことを確認して生きているのだと安堵した。「サァ、体ヲ休メテ水ヲ飲ンデクダサイネ」と少しの水を持ってきてくれた。きっと此処の人達は遭難した者たちに急に食べ物を与えてはいけないことを知っている。ターシタンは仕事柄リフィーディングによる危険性を十分すぎるくらい知っていた。
寝かされているところは、おそらく周囲から切り出された木材で出来ていて、太く屋根を支えているであろう木材は適当に曲がり、今居る建物の端から端までを貫いていた。その木造建築は不思議な芸術的空間に溢れて区切られた部屋は独創的感性で作られている。今まで人工的建材の中でしか生活してこなかったと言うよりそれが普通で全てが当たり前の空間だった。床が天井が柱が天然の木材で作られている家など初めてのことだし、かつて古民家なんて言われていたものさえ歴史の記述の中で小さくなっていた。ターシタンはそれらの木の感触が肌に伝わるような感触の中に身を横たえていた。家族は何人くらいいるのだろうか、差し込む光からは、午後の時間だ。
ターシタンは、確信に近く過去の時間にタイムスリップしてしまったのだろうかと思った。何時だったか森の中で眠ってしまった女性が、気が付いたら数百年前の世界に居て、戦火甚だしい時代の中で看護師としての経験を生かして活躍し、当時の戦士と恋に落ちると言う映画を見たことがある。それと同じになってしまったのだろうかと不思議だった。
右肩に少しの痛みはあったが、体を起こしてみた。目の前は一面に芝の庭になって、寝ているところからは小高い隆起があったりするけれど平らな地面が続いている。起きて歩くには、少しばかり体への負担を感じてはいたが、それより此処の時代と場所の興味が上回っていた。ところどころにはよく手入れされた木々があり、コスモスが満開に広がっているところも見える。その先の薄っすらとした視界のところどころには、大きなタワーの残骸が残されている。このタワーは、かつてこの地を津波が襲った時に住民が其処に避難した施設の痕跡だと思った。何時だったか歴史の勉強で聞いたことがある。少しずつ周りを観察してみた。所々に残るタワーの存在は、此処も現代の時間であることを理解させた。
この先には海があり、この世界は、おそらく過去の陸地隆起時の地震の際に海辺に取り残され、科学的技術の進歩からも取り残された人々が独自の文化を発達させて一つのコミュニティーを作っているのだ。そして、ここでは独自に古い言語を元にした言葉が発達してきたのだ。そう言えば此処にも災害の痕跡がない。地球の温暖化はもう随分昔のことだったし、プレートと言われた地球の地殻部分も動きは止まっている。地球は歴史の教科書的には24時間の時間が生活の基準となっていたが、今では地球に起こった様々な変化がこの惑星の自転速度を変化させていた。地球の自転と海水温の変化がかつてはハリケーンを発生させていたが、もう歴史的な現象でしかなくなっている。
ターシタンは、強い好奇心に我を忘れていた。この地の文化や生活を知るために、しばらくは帰る方法を考えないことにした。残してきたノルコンのことが心配だったが、やがて帰ることができたらたくさんの話ができるだろう。
身体は少しずつ回復して、辺りを少しずつ遠くまで歩くことができるようになった。この地は農業が盛んな地区に見えた。畑の一部は収穫が終わっているようだったがその一部にはこれも懐かしい光景だと感じられる濃い緑色をした青菜の列が規則正しく植えられている。このような農業のある風景は記憶の中には無いが、子供の頃の昔話で聞いたことがある。
僕は一体いつの時代へ来てしまったのだろうか、ターシタンの暮らしてきた社会とはまるで別な異世界に迷い込んでしまった、と言うより連れて来られた。畑の中の人々は逞しく仕事に従事し、子供たちも大人と一緒に働いている。近づいてみると、子供らは一斉に隠れてしまい、大人たちは訝しそうな目を投げかけてくる。働いている人々は皆小柄で、190㎝の身長を持つターシタンのことをもしかしたら本当に宇宙人かと思っているのかも知れない。中には妊婦と思われるお腹の大きな女性も混じっていた。この世界の人達は、人工物を自然として育ってきた現代人と違って、古典的自然界の中に育ってきた人類を思わせた。
畑の連なる土地を過ぎてゆっくりと歩いていくと大きな水を湛えた場所に居た。此処はきっと海辺なのだ。当たり前のことだが今までの人生で海を見たことがない。もう夕暮れなのか低くなった太陽が黄色味を帯びて彼方の水の上にある。そしてふと目をやるとそこには擦れた文字だけど、NIHICJと確かに印刻されたコンテナが流れ着いていた。
注)造語NIHICJ(国立日本衛生研究所、 National Institutes of Health and Infection Control of Japan)