寄り道は時々

第1章 ジーパとエッタン 完結編

はじめに、ここでは今までの投稿(1-1から10)をまとめて一部改変し、第一章として完結しています。内容は、特定の時代ではない未来のお話(フィクション)です。文章中の人名、地名、商品名などは架空のものです。中には、未来のことなので想像だけで科学的裏付けのない記述も含まれています。

Chapter 1 ジーパとエッタン

えっ、えっ、肩を揺さぶられている感覚が目を覚ますには十分だった。寝る前にテレモートのモーニング設定を13時にしておいたのだ。昼の時間はもうとっくに過ぎていたけど、ベッドから起き上がれないでいた。カーテンの隙間から差し込む昼過ぎの太陽が顔の半分に当たって、海鳴りが風音と一緒に地響きのように聞こえてくる。枕に顔に当てたら吸い込む酸素が減るのだろうか、日差しと風に乗ってくる音が混じりあったベッドルームは、もう一度深い眠りに引き戻そうとしていた。

「ジーパ、おはよう」、今日は、このまま何のスケジュールも無かったはずだ。僕は昨日から着たままの手術用のアウトフィットで、リビングに行った。「おぅ、エッタン、昨日は飲みすぎたな。さっき外来へ行ってガストロタブ飲んできた。ありゃ楽だな、血圧の薬飲むより楽だ」、僕は、どんよりした頭に昨夜は調子よく飲んでしまった反省だけが詰まって黙っていた。口には出さない悪態の独り言が出てくる。「いまどき血圧の薬なんて飲む奴いないよ、ジーパだってオンデマンドコントロールのお世話になっているだろうに」。この血圧治療法が一般的になって、心血管疾患など高血圧関連疾患は皆無に近くなった。体に張り付けた血圧センサーによって血圧コントロール薬が適宜注入されるだけだ。糖尿病なんて自分の細胞で作った人工すい臓を埋め込んでおけば、血糖のコントロールは完璧だ。愚痴を言えば今や医者の仕事が無くなって、医療エンジニアが人気の職業になっている。

確かに1cmも無い錠剤型内視鏡は飲むのに楽で何時でも検査することができる。この内視鏡は優れもので、飲み込まれると表面をコーティングしていたカバーが胃酸で溶けて移動用の足が出て、ちょうど水すましのように胃壁の表面を走り回る。動物や虫の形態やら機能を参考にして様々な医療器具や素材を開発してきた歴史があるが、これはいいアイデアだなと思う。目の前の三次元モニターには、さっき飲んだタブレット内視鏡がジーパの胃の中を映し出していた。自動診断装置が声を上げて、こんなもの、診断させやがってとばかりに面倒くさそうに所見を解析してくる。まったく、こいつらもだんだんと人間臭くなって来るな。「何ともなさそうだ、また飲めるな」、酒飲みは自分の臓器のアルコール障害を気にしながら毎日飲酒するのだが、ジーパでさえこの年になってもやっぱり心配なのだ。ジーパのことだけど、確か九十才はとっくに超えて百年位生きているんじゃないかと思うけど、髪は赤茶色で一部金色になって小太り、うすい髭面で赤ら顔、まぁなんとも不釣り合いな風体に見えるけど、大概の爺さんたちはこんな感じでいる。

昨夜はカリフォルニアからのジャパニーズ・サキ、ドラゴン・ワンを二人で飲んでいたので寝すぎてしまった。ジーパの言うには、昔の日本人が日本酒もワインに匹敵するように、外国に輸出やら宣伝やらしたので、今ではすっかり世界に広まって、特にアメリカでは、ステーキやアメリカの食事に合うように醸造されるようになった。その中でもドラゴン・ワンは秀逸で日本でも人気のある高級酒になったのだ。

注)①ガストロタブ、胃内視鏡のことをガストロ内視鏡と呼ばれた。タブは錠剤タブレット、錠剤型胃内視鏡の造語 ②オンデマンドコントロール、必要度、要求度に応じてコントロールすること ③ジャパニーズ・サキ、Japanese Sake、発音する時サキとなる。

リビングには1900年代に活躍したビートルズの曲が流れはじめている。Michelle, ma belle. Sont des mots qui vont très bien ensemble, Très bien ensemble. I love you, I love you, I love you. That’s all I want to say. Until I find a way I will say the only words I know that You’ll understand. 聞いているうち、午後のけだるい雰囲気に合っていると思った。ジャガード織の頑丈な椅子は、一部が擦り切れたように色が白っぽくなって、ところどころ物をこぼした痕が薄く濃く付いている。こんな古い物もう捨てたらと言ってみたことがあるが、今は聞こえてくる旋律と合っている気がしている。ジーパが選んだのか、今の体調や気分と雰囲気を察知した選曲が自動的に行われたのかは分からないけど、室内をBGMモードにしておくと、その時々の状況に応じて選曲が行われる。今はビートルズを聞いていても良いな。ビートルズが活躍していた頃のイングランド、ロンドンのことは想像してみても良くは分からないが、以前、ストリートビューで見た時には、一部の地域ではレンガ造りの建物がストリートを形作り、少しばかり苔むし煤けた通りから曇った空が見えていた。煙突が屋根の上に並んで、確かにサンタクロースも部屋の中にプレゼントを届けやすかっただろう。夏の季節が終わる頃にはマロニエの落ち葉がもう歩道の上を風に舞っていた。また何時か仮想空間への移動でも良いから行ってみたい。ジーパは音楽好きだって言って、高級なミュージックシステムにアップグレードしたりするけど、楽曲の深い意味を考えたこともなく、ただ耳に良い音楽などを聴いているだけ、このところは自動選曲ばっかりで、好みも何もなく、曲の内容なども理解もしないままで、一端の音楽好きを演じたり気取ったりしているだけのこと、でも今もこれからも、音楽の勉強をしようとか、一流ぶった評論家になろうなんて、そんなことはもう考えなくていい。「おぅ、近頃はエックスが広まってきたみたいだな、このところ何人かエックスしたのか」、エックスとは、エクステンド(人工子宮、EXTEND:Extrauterine Environment for Neonatal Development)のことで、近年ヒトへの使用が認められ、現在では安全に使用できるようになってきていた。

注)Extrauterine:子宮の外で、Environment:環境、Neonatal:新生児の、Development:発育、新生児の発育のための子宮の外での環境、

窓から見下ろすと樹海のように広がった森が幾重にもうねり、一つのコラージュ作品のようになって、その先にはいつも通りの海が遠く陽光に輝いて見えている。日差しは少し和らいで、いつの間にかBGMは、ショスタコーヴィチだろうか、気分が変わる。「昨日は、二人だけだったけどね。とにかく上手く育ててあげないと、一人はさぁ、羊水がちょっと少なめの子でさ、いきなり妊娠週数の平均で収容して良いか迷ったけど、まだまだ難しいね」、僕はジーパに話しても無駄かと思ったけど、自分に言い聞かせるかのように昨日のことを思い出していた。確かに、一例毎に胎児の状態が安定するまでに、エクステンドへ移植後もまだ数時間は見守らなければならない。だけど、実際はこれだって殆どのことはエンジニアに頼っている。ジーパは案の定「そうか、二人やったか、そりゃ疲れるな、臨床はいろいろだからなぁ、近頃は子供たちもエックスの中で育ってくのが普通になったな」。勉強している風にモニターの画面を見ながら、気が向くと、時々、こうやって話を振ってくるのがジーパの日常みたいなものだ。昨夜だって、同じ話をしたはずだ。だから仕事が終わってドラゴン・ワンを二人で空けた。この記憶ってやつは血圧のコントロールみたいに行かない。まぁ、ついでのことで付き合うしかないけど、「ウチにはエクステンドが40台認可されているけど、もう一杯になるよ」。

エクステンドは、実によくできていると思う。なんの疑いもなく使用されているけど、人工子宮の素材がまさに子宮だと思わせる。子宮は、そのままだと長さ7cm、厚さ4cm位だから前後の筋肉の厚さ、子宮筋層は2cmずつだと思っていれば良いけど、生まれる前には長さ33cm、子宮筋層は0.5cm位までになる。現在使用されているエクステンドの素材は、胎内の羊水圧でゆっくりと伸展し、この人工物がまさに生体内の変化に応じた発育をすると言っても良い。胎児を収納する場合にはあらかじめ妊娠週数相当の大きさに調整しておくことが必要となる。その後エクステンド本体は、個々に37.5度の液体の満たされたボックスに収納される。このため、エクステンド施設には、相当に広い部屋が確保できることが要求される。エッタンは、手術室の隣にあるエクステンド収容安定管理室で収容胎児の安定とエクステンドの動作安定を確認したうえで、センターのインキュベーションルームへエクステンドを移動させた。あとは、ほぼコンピューター管理で行けるが、暗くて広い空間に並んだエクステンドシステムは、地下に発見された遺跡の中に連綿と並んだ遺構をも想像させ、人の現在と言うものの価値が失われた世界が現れたようにも思えていた。

今までもエクステンドの応用は羊や豚では検討しつくされていたが、ヒトでは倫理的問題とヒトの胎児が発育する環境の詳細が解明されていなかったために、臨床応用が延期されていた。しかし、2100年以前に始まった人口減少はその後も改善が見られず、それに続く人類の生殖能力の低下がエクステンドの臨床応用へ道を進ませた。この臨床応用には、メディカルテクノロジーの著しい発達があった。さらに、いくつかの生理学的問題、例えば出生に向けて胎児機能が胎外の生活に十分な生体機能を獲得するための促進系と、出生までに呼吸開始などの出生後に生ずるべき機能が発現しないための抑制系に関わる物質の解析などが残されていたが、これらも胎盤細胞の分泌メカニズムや胎児の機能的解析などから解決されてきた。

米国での勤務から帰国してこのエクステンド施設を開設するまで、僕はバキモラム大学で臨床研究と言えば聞こえはいいけど、どちらかと言えば医療エンジニアの仕事に専念していた。アメリカ東海岸にあるバキモラム大学は、心臓を含む異種臓器移植の先進的研究機関で移植関連の知見や技術は豊富で、このエクステンド技術でも先駆的研究機関となっていた。ここでは、生理学的研究も工学的研究も臨床科ではなく、併設された生理学系や生化学系、工学系の基礎系研究者の手に委ねられていた。そのため効率的に技術革新が進み、診断、治療と称する範囲が進歩していた。

ジーパは、かつてお産はひどく時間がかかって、妊婦にとっては、お産の際の痛みによる負担も相当なものだったと言っていた。でも産痛を人類が経験したのは、もう過去のことと捉えられている。現在では、痛みをヒトに与えることは極めて有害な事象と考えられていて、人類は痛みからの逃避を獲得しようとしていた。今は使われていない当施設の一番古いオペルームの壁にインテリアみたいに産科鉗子が飾られていた。江戸時代を描いた漫画に、壁のところに槍が置かれていた絵を見たことがあるが、この鉗子もそれと同じ一種の武器だったことの象徴だ。こんな器具を使って分娩を補助していたなんて到底考えられない。その下には、古風なブックケースに産科手術と書かれた分厚い本が置かれている。

かつてから産痛の制御と分娩時間の短縮が、産科医にとっての永遠のテーマだったとも言えると、ジーパは話していた。

現在では、分娩は全て帝王切開術で行われるが、過去の文献によれば、日本での分娩は人口の減少がはっきりしてきた頃には、半数ほどが帝王切開術と呼ばれる手術による出産だったとされていた。当時の医師たちは、帝王切開術後の合併症のリスクからも、できるだけ帝王切開術を減らすべく警鐘を鳴らしていたことが同時に記載されていた。この帝王切開術って何となく呼ばれているけど、古い歴史が名前の基になっている。シーザーと言う帝王が子宮切開術で産まれたという故事によるのだ。

分娩の形態を帝王切開術によると人類が選択した背景には、これまでの歴史の中で様々な要因に影響されてきた経緯がある。技術の進歩もその一つだが、人口減少の中で分娩の母児へのリスクを最小限にしようとする意向が大きく働いてきたことがある。体外受精児が誕生してきた頃には貴重児と言う言葉さえ生まれてきたことも過去の文献で読んだことがある。そして、胎児の発育を現在のようにエクステンドで行うように進化してきたことも大きな要因と考えられる。人類は科学的手技を持って生殖に介入しなければ絶滅への道を進むであろうことが、現在の地球での大きな課題となっている。その背景には現在の日本を含め多くの国々で、ヒトの生殖能力の低下が明らかになっている。当然、種の維持保存には一定の同種の数が必要で、地球上の生物が絶滅するメカニズムは、外因性にしろ、内因性にしろ、明らかに数の維持ができなくなった時なのだ。例えば1800年代に北米大陸に生息していた鳩の一種は、バッタが空を覆うみたいに多数の数が居なければ種が維持できなかったところ、輸出用の缶詰にするために捕獲され、生殖に必要な個体数が著しく減少し、やがて絶滅した。また、絶滅にはもう一つのメカニズムがある。古代恐竜もマンモスも地球の環境変化により絶滅したとされているが、もう一方で生殖能力の低下が絶滅への道を進ませたことが知られている。人類も社会的要因や子育て、子供そのものへの考え方が少子化へと進ませ、その上に生殖能力の低下が顕著になってきた。このままでは、人類を維持するだけの個体数が確保できるのか懸念されることになってきた。

最近の生殖医学についての論文では、各地から現在の人類も男性ではY染色体が矮小化している者が多くなり、中には痕跡的に確認できるだけの個体も散見されることが報告されることも多くなっている。女性でも子宮の発育が著しく障害される者や膣さえ狭小化している個体があることも明らかになっている。骨盤の発育が障害され、骨盤形態が変わってきたことは、もうとっくの昔のことだ。

この国においても、少子化対策の一環として生殖能力が低下した人たちへの支援として、子孫を望むペアのために一部の体細胞から卵の発生を確保し、同様に精子の発生か代用細胞を入手したところで、受精卵を作成することにかかっていた。でも受精卵が発育して胎児になり胎盤を形成し胎児胎盤循環が出来上がるまでは、どうしても子宮の存在が必要なのだ。このことは、異種臓器移植の技術をもって羊、豚などにとって代わってもらうことは、今や容易なことと考えられている。しかし、ヒトの胎児を異種子宮の中で育てることは、現在の世界でも倫理的に許されていないことだ。このことについてのコンセンサスを得ることは、ヒトの倫理的問題だけでなく、動物愛護の面からも永遠に解決されないことなのだ。さらに、ヒトのリプロダクション(生殖)の方法では、受精卵の状態から人工環境で胎児へ発育させ、出生までを胎児の環境コントロールで行う技術も考えられていたが、この事は、受精卵の作成が限りなく行われた場合には工業的胎児製造と言う側面もあり、現在では国際社会において行われることは強く制限されている。現在でも人は人との関わりを持って出生することが求められている。

注)①産科鉗子:分娩に際して、急いで出産をさせる際に児頭などを挟んで牽引する器具、この分娩方法を鉗子分娩と言う。②Y染色体:男性の性染色体はXYの対になっている。Y染色体が男性の形質を規定する。女性はXXの対になっている。③ヒト、人類のこと、人類を生物の一種として表現する場合にはカタカナの「ヒト」を用いる。

その上で今の時代、愛を有する者達がその者たちの遺伝子をこの世界に継続していこうとする意志を持ち、ヒトの生物学的本能ともいえる家族形成を願い、親の遺伝子を受け継いだ子供を育むことを希望する者達をサポートすることは、この世界に住む者たちにとっては、最大限の努力を提供し続けなければならない。そのため、医療的には女性に負担のない医療を含む科学的技術も急速に高まって、社会的コンセンサスも得られ、胎児を安全に出生させるまでの技術的問題も、安全に確実性を持って臨床応用できるようになっていた。

人工的に得られた卵細胞からの体外受精による受精卵は、子宮内での一定期間を妊娠継続し、成熟児になるまではエクステンドで過ごすことが当たり前となった。ただ、人類が生殖を失い、種の保存ができなくなり絶滅へ向かうことへの対策と、性染色体差による女性への生物学的な過誤的負担とも言える妊娠、出産とのバランスをどう考えるのかは、未だ検討課題であり、直ちに解決の付くことではない。今なされていることは、生殖への100%の安全性と、生殖に関わる女性の身体的負担の軽減方法を昇華させることの技術を進歩させたに過ぎない。国際地球生物保護機構だって人類保護の十か条を掲げて、ヒトも地球上の生態系を形作る種の一種として絶滅を回避するために安全な帝王切開術を掲げている。帝王切開術に代表されるように女性の身体的負担軽減のための技術的進歩は完璧に近くなり、昔はいざ知らず、今では帝王切開術もほぼ全てをロボットがやってくれる。医者は万が一のトラブルに対応できるように見守っているだけだ。もう経腟分娩を望む女性は居ないし、第一、経腟分娩を扱ったことのある医療者が居なくなってしまった。

現在では、全ての外科的治療を必要とするものは、苦痛から解放されていて、帝王切開術も技術の進化で苦痛は皆無と言えるほどになり、数時間の経過後は日常動作程度の生活は保証されている。麻酔は、現在でも腰部硬膜外麻酔が主流だが、なんの心配もなく麻酔されてしまう。刺入針に内蔵されたマイクロセンサーが、妊婦の脊椎や周辺の組織を識別し、確実に麻酔薬を硬膜外に注入する。皮膚刺入時には、皮膚痛点を麻痺させる高ヘルツの微細振動が針と付随する機器に与えられているために刺入の際に痛みを感じないのだ。さらに、手術中の妊婦は、ボーン・コンダクションセット即ち骨伝導装置からの音楽を聴きながらうとうとしただけで赤ちゃんが生まれてくる。この手術時ボーンコンダクションは、同時に脳波も解析してくれて、当人の一番快適な音環境を提供してくれる。加えて脳波の痛みパルスを適宜解析して、痛み反応の脳波を打ち消す刺激を脳に適宜同調させることで、痛みを感じないように調節する効果を期待できる。

注)硬膜外麻酔、脊髄の硬膜の外側に麻酔薬を投与することによる麻酔、硬膜(こうまく)は、脳と脊髄を覆う三層の髄膜のうち、一番外側にある膜。

手術室のロボットは、かつては大掛かりなもので、ロボットと言いながらも医師の熟練操作も要求されていた。現在では自走式ロボットシステムのため、軽量化も進み手術室内の雰囲気が一変している。ロボットには当然のことながらチャットシステムが組み込まれていて、適宜、患者さんとのコンタクトができる。応答認識できる範囲は無限で、冗談まで話しかける。こいつら人にとって代わったな、とさえ思わせることから余計なこと言うなよと注意したくもなる。手術に際しては血管認識テクノロジーが一般化されているため、出血量も無視できるほどに少なくなっている。手術終了時の子宮の切開創には、あらかじめ本人の細胞から作成した子宮筋細胞シートと血管細胞シートを創部に貼付し、増殖スターターをかけておく。それにより術後から直ちに切開創の修復が始まり瘢痕子宮にならない。これらの細胞シートからの組織形成は創部が修復されれば、自然と増殖が停止する。皮膚創さえ皮膚細胞シートと血管細胞シートを置いて増殖スタートを行えば、その後数日で跡形もなく修復され痛みも無いのだ。

僕のジーパ、アキートは、ずっと前からお産だけが人類に課せられた苦難だったし、この産痛は化石人類以来の証拠があると言っていた。化石になった人類の女性の骨盤には明らかな産痛の痕跡、すなわち出産により骨盤骨が障害を受けた痕が残っているのだとさえ言っていた。過去の医師たちには、この産痛のコントロールと分娩時間の短縮に試行錯誤を繰り返してきた歴史があると繰り返すのだ。何とかウトウトしていて目が覚めたら隣に元気な赤ちゃんが居たってことにならないかと恩師が言っていたとさえ繰り返す。

ジーパの思い出話の中で何度も聞かされる話がある。若い頃、アキートの勤務先のボスが、こう言っていたことがあるのだ。「アキート、お産を100%人工的に行うってことは神の意に反するかね」、まだ一部の分娩が古典的自然分娩を余儀なくされていた時代の話だ。当時のボスは、もう六十才くらいになるのか、首の下の皮膚が襟首から七面鳥みたいに垂れ下がって、いかにも立派な研究者然としていたとも言っていた。当時、アキートは、この先駆的研究者さえ今でも神の意思に気を使うのかと思ったが、「人が子孫を残そうとすることは、方法の如何を問わず神の大きな御意思でしょう」と言い返してみた。これから、人類を守るには科学的手段を持ってしても卵子の確保、受精、着床を人工的に行い、胎児の順調な発育を確保する技術を発展させ、安全な分娩につなげることだよね、と周りに頷く者もいないのに呟いてみたと話をしていた。神の意思に反するって言葉を何かの記述で目にしたことがある。それは、昔、体外受精の将来像がやっと見えてきた時代の頃のことで、名門サンラタ大学の敬虔なクリスチャンの教授が、その病院で保管されていた受精卵を神の名において廃棄した事件があったことである。現在では、受精卵の作成も保存も受精卵から発生した胎児も、出生した新生児も、発育した子供たちも普通の地球上の生命体の一つの存在として人生を過ごしているのだ。発育した胎児をこれ以上子宮の中で育てきれなくなった時点でどうするのかは、古来、産婦人科や小児科の医師が努力してきたことだ。エクステンド技術の発展もその先にあった。

大昔、哲学者ニーチェでさえ、始めるから始まると、始めなければ始まらないと言っていたではないか。

僕がこの地で新たにエクステンド施設を開設することになったのは、米国のバキモラム大学エクステンド・インキュベーションセンターに勤務しながら研究していた頃、日本政府から僕のことだけどエッタン様ってメールが来て、日本にエクステンド専門施設を開設するよう依頼が届いたのだ。日本の人口が著しく減少し、日本でも国民の生殖能低下が顕在化し、このままだと日本人の種を維持できないからと言うことが主な理由だったと思う。しかし、もう既にジャパニーズと言う混血型単一民族のルーツは消失し、日本人と言う種は多民族混血種になっていることは明らかなのだ。要は、エクステンド技術を用いても日本の人口減を阻止しようと言う人口対策の世界的動向に協調した政策なのだ。高齢化も問題だって言うけどジーパも百年くらい生きているし、このくらいの年齢の高齢者は相当に増加しているのだ。

エクステンドは、一度始めたら永久に止めることができない。エクステンドの中には出生を待つ胎児が育っている。胎児が出生するまでは、徹底した事故からの防止策が要求される。ヨーロッパやアメリカ東海岸では、岩盤地下までの施設でエクステンドを守ろうとすることが一般的だ。バキモラム大学でもエクステンドは地下の施設にあった。大地に抱かれた施設は、やはり胎内に抱かれるイメージにもマッチしている。このエクステンドシステムは今や否応なしに人類の必需品となっている。胎児は、エクステンドで育ち、生まれる。人工子宮といっても胎児の育つ環境には、母体の中にいる時に胎児が得るべき情報を限りなく提供し、胎児はいつでも母親のお腹の中にいる時と同じように育っていくことが重要と考えられている。そのためエクステンド技術の中には、胎児のためのいくつかの環境整備がなされている。その設備は、エクステンド製造を行う各社の製品でもほとんど差は無い。先ずエクステンド内の光量は子宮内と同様に暗い。この暗さは胎児が出生を迎えた時に胎外の明るさで、視力を含め光刺激による様々な生体機能を目覚めさせることに必要なのだ。次いで子宮の中で最も大切とされているものは、お母さんのお腹の中にいる時みたいに聞こえてくる母親の心臓の鼓動と心音、血管の脈動、そして母親の声なのだ。胎児は羊水の中にいるために、胎児自身が受け取る情報は母親の声、心臓や消化管から発生する音など母体そのものが発する音と、脈の動きを含む振動以外に無い。エクステンド内の胎児には、母親の生体音と脈拍振動を疑似的に作成して与え続けることと、母親が日常生活で発する声を毎日一定時間、あるいは一日ずっとリアルタイムでエクステンド内の胎児に聞かせてあげるのだ。このことは、胎児の脳の発育に最も重要とされている。

母親の胸に貼付したフィルム型指向性マイクロフォンで受けた母親の声は、他の生活音や他人の声などがノイズカットされ、母親がどこにいてもエクステンド内の胎児へ送ることができる。一方でエクステンドと母体とのシンクロもなされている。エクステンド内の胎動を母親が感じるシステムがあり、エクステンドのセンサーが胎動をキャッチし、母親の持つ胎動装置が腹部に胎動感覚を与える。このため、母親も胎児を実感として感じられる。さらに、エクステンド内は暗い状態を維持するためにカメラで胎児を観察することは最小限とされ、今でも胎児の発育などの経過は超音波診断法に頼っている。これらのシステムは、疑似的ではあるものの母児の絆を育て、出生後の母子愛着につながることとして重要視されている。今後も生体内での現象が胎児と母体に与える影響については、研究を重ね、エクステンドの改良を続けなければならない。さらに重要視されていることは、母親または両親に定期的に受診していただき、現在の胎児の状況を診断するとともに母親および両親のメンタル面でのカウンセリングを行うことである。エクステンドシステムで出生した子供たちは、現時点では全く何の障害も無く育っているし、日本ではこれからだが、あらゆる発育、発達の指標もバキモラム大学エクステンド・インキュベーションセンターの追跡調査ではきれいな正規分布を示している。

「エッタン、やっぱり日本に帰るのか、もう少し居ればもっと母体内に近い環境を再現して、簡単に確実に管理できる方法ができてくるだろう、君の実績をブラッシュアップしないで、今帰るのはもったいないよ」、当時のバキモラム大学エクステンド・インキュベーションセンターのディレクターが声をかけてきた。「エッタンを残すように俺が日本の政府に直接電話してみようか」とまで言ってくれたが、日本人の血が流れる僕は、日本の危機を救うべく帰国を考えていた。

数カ月を経て、帰国が決定した際に、僕はニューヨークからアメリカン・テラ航空(American  Terra Airline Company:ATAC)の極超音速機(Hyper Sonic Speed Aircraft: HSSA)で帰国することにした。ATACのHSSAでは日本まで2時間もかからないけど、ジーパが居た頃はよっぽど大変だったらしい。高速移動法は人類の夢であり、様々な高速移動法が研究されたが、陸上に限るとか、移動ポイントが限られていることや、多量のエネルギーを要することなどから海外への高速移動は現在でもHSSAによる方法が選択されている。実際、世界は時間的に狭くなった。

「ちょっとぉ、なに、なに、あんたさぁ、だれぇ、どこまで行くのぉ、きゃぁぁ、怖い、怖いんだものぉ」、HSSAはそれなりに狭い、この機種は五十人乗り、椅子だってゆったりとは言えない。そんな中で、搭乗するかしないかの途端に、大声で注目を浴びようとするのか、パニックになっているのか、若い女性が隣にやってきた。「初めてよ、初めて、どうしたら良いの、怖いぃ」、どうしようもないけど、早く座ったら良いのに、だれって言われても、まさかこのまま大声を上げ続けられたらたまらないな、時々こんなパニックで分けわからなくなっているかのような女性に遭うことがある。HSSAには当然だけどキャビンアテンダントが居ない。自動音声が、チェックイン時の顔認識で「座席ナンバー、2のBの方ですね、ようこそ、ATACへ、先ずご自分のシートナンバーをご確認くださいね」、この状況を解析して優しく語りかけてくる。「座席ナンバー2のBは、ちょうど今いらっしゃる左側のお席の通路側です。ちょっと狭いかもしれませんが、そこへ座ってみましょう」、たった2時間くらいの移動時間だったけれど、彼女は、ずっと無言でシートの肘掛の端を握りしめていた。間違って手でも握られたらどうしようと思っていたけど、これは何とか無事に切りぬけられた。

「あのぉ、先ほどはすみませんでした」、入国審査を済ませると機内で隣にいた女性が声をかけてきた。「私、ドラゴンアイズヒルの祖父母のところへ行くんですが、どうしたら良いのかこの先が分からなくて」、何ということだ、近頃の若い人は無計画で行動するけど、ドラゴンアイズヒルまで一緒かい、明日、僕は霞が関に寄らなければならないし、僕もドラゴンアイズヒルに帰るから一緒になんてとても言えない。もし、言えたらそれはそれで厄介なことだ。「もう、今からでは間に合う方法も無いから一旦ホテルへ行って、ホテルのコンシェルジュに行き方とか、切符の手配など頼んだら良いよ」、「あのぉ、わたし、そのまま帰れると思ってホテルの予約が無いんです」、あぁ、なんてことだ、帰国早々、こんな若い女性に関わってしまうなんて、誰か知り合いに見られていないか、周りを見回してみた。服装だって首にコルセットを巻き付けたような衿にホログラムイエローな材質で出来た上着、極端に短いパンツスタイルで、目立つ。

HSSA発着場となった東京空港の空は、重なった雲の間に暮れようとする太陽の光が赤い。何とか早くこの場を離れたくて、今夜泊まるホテルの空室を検索して、まだ何室か空いていることが確認できたので、自分で予約を入れてもらった。ホテルまではイーヴィートル(Electric Vertical Take-Off and Landing aircraft)だ。一人だったら一人乗りのイーヴィートルで済むが、まさか二人乗りでもあるまいし、使用料は高くなるけど四人乗りのイーヴィートルを選び、ホテルの名前と予約時に送られたホテルの座標データを入力して、「GO」のマークをタッチした。イーヴィートルで空港からホテルまではわずかな距離だが、日本の国土には大きな木や緑地が増えて、自然環境の豊かさが戻ってきたような感じがした。明日は、霞が関の「こども人口開発庁」へ寄って、今回のエクステンド施設開設の経緯と、国家補助の申請などについて担当役人との話し合いがある。その後久しぶりの故郷へ帰ろうと思う。「こども人口開発庁」って省庁名にも何か違和感があるものの、実情を考えればその通りのような気もしていた。

ホテルのルームサービスのメニューには幾つかのワインなどに混じって、ジャパニーズ・サキ、ドラゴン・ワンとブラック・ドラゴンが並んでいた。このワインリストにあるドラゴン・ワンもブラック・ドラゴンも何とドラゴン好きかと思わず一人笑ってしまった。そう言えば、僕の実家もドラゴンアイズヒルにあるのだった。

日本は、この百年余りで人口減少から免れないと国家の管理方針を徐々に変えていった。この構想は、ずっと前から計画されていたが、現在の高速移動法などのインフラが成長、整備されてきたため、いよいよ実現化されていた。人口は、日本の四カ所の人口大集積地区と五カ所の中規模人口集積地区に集中化し、その他の地域では当初の国の計画通り人口集積地区以外に居住を希望する者は、自らの責任において移動手段を確保することが示されていた。人口集積地区間は大型のイーヴィートルや地下のトンネル内を高速輸送でつなぐことになったが、結局、人口減に伴い人口が集約された都市では、その都市内で全てがまかなえるように発展していった。やがて、その他の地域ではその居住地区と都市間での地上交通は無くなり、時を経て人口集積地区以外に住む者はいなくなった。ドラゴンアイズヒルは、中部地方の人口集約地区として都市機能を維持していた。そこは、海に向かって広大な緑地が広がっている。その先に切り立った岸壁を見通して海が広がっている。その様はきっとテーブルマウンテンを彷彿とさせる光景だろう。このドラゴンアイズヒルも隆起により標高が増加し、海辺にはわずかな土地を残しているのだと古老の言い伝えがある。さて、明日は、何年かぶりにジーパに会って一杯やろう。

帰郷してから早速、エクステンドセンターの構想を考えた。まだ少し肌寒い風に、薄手のシャツがそよぐのが心地よいドラゴンアイズヒルの台地にエッタンは居た。この台地にエクステンド施設を建設するにあたって、エクステンド内の胎児を災害などの事故から守るにはどうしたら良いかが設計上の問題となった。かつて、日本は地震の国だったと聞いていた。過去には大きな地震に遭遇し、地震災害の記録は詳細に記録されていた。毎日のように目覚ましに使っているテレモートも地震を意味するそうだ。確かに体を揺する感覚を体に与えて目を覚ます方法は、地震に遭ったみたいなものだからメーカーも皮肉な名前を付けたものだ。

現在の日本はここ200年以上地震がない。僕だって生まれて日本にいる間に地震を経験したことが無い。ジーパはアメリカの東海岸に住んでいた頃、ここではアースクェイクなんか無いよ、だから石造りの建物が残っているのをよく見るだろう。まだ建設中のところもあるぜ、倒れないからな、日本はどうなんだ、地震があるんだってな、なんて同僚から言われていたらしい。記録によれば200年だかその前だかの地震は大変だったらしい。体も何もゆっくり持ち上げられるみたいな地震が間断なく数カ月続いたらしい。地域によっては船酔いや車酔いのような症状を訴える者が多数発症したと記載されている。その数カ月の間に日本は隆起し、海岸沿いの地形も国土全体も変形し、日本海は狭まり国土面積は増大した。ずっと昔の古典に日本が沈没すると言う小説が大流行だったと書かれていたと聞いていたが、結局、日本は沈没しないで却って隆起した。その後、何年かを経過して国土の全貌がはっきりしたが、その後の地球ではプレートの移動が止まっているようだ。もしかして地球の老化が始まっているのかも知れない。

エクステンド施設には、将来的に施設内で育つ数十、数百の胎児が居ることになるだろう。管理そのものは十分にコントロール下に置かれて安全性は確立されていることになる。しかも現在では地球上で起こりうる全ての現象は適切に予測され、リスクを回避する対策はなされている。地球ほど安心できる地は他にはないのだ。しかし、地球上に起こる予測の範囲外の事象は限りなくゼロではあってもゼロではない。

米国東海岸のバキモラム大学エクステンド・インキュベーションセンターは、岩盤の中に作られていた。日本では、このところ長い間地震を経験することは無いが、かつては地震大国と呼ばれた地域だ。突然の天変地異にも耐えられるように、この施設は、地震や地盤変化に耐えられるようにフローティングシステムで建設することとした。これは、建物全体を船のように流動体の中に浮かぶように建設する方式で、広い面積を要する建造物には適切な方式とされた。建物を支える流動体は新たに開発された超高粘度物質の一種で、通常は岩盤と同じ強度を有するが、地震振動などで状況に応じて粘度が変化し、建物を振動から守り一定の姿勢に保つ効果がある。

これまでもエクステンドは、妊娠による母体のリスクを解消し、胎児からは胎児発育や出産に伴うリスクを抹消してきた。一方でエクステンドでも胎児は出産を経験するシステムが必要で、出産の経験が新生児の正常な出生後の身体機能の発達を促すとの説を唱える著述も見られていた。確かに、かつて生物が経験してきた自然と言うプロセスも出生には必要で、変わることは無いのかも知れない。しかし、旧来の自然は、一定のリスクを受容することを生物に要求してきた。現在までに、自然の概念は人類の生活の中で様々に変遷してきている。少なくとも現在のヒトが存在する自然は、人工的な空間や環境のことに代わってきている。現在まで行われてきた生殖のための技術的進歩は、ヒトからは生殖に伴う動物的行動を排除し、継代的に生殖を繰り返すことによる遺伝子の変化さえ過去のものとしてきた。そしてエクステンドを続けることは、この先ずっと未来永劫、技術的なことだけでなく、本来人類の持つ種の保存への生物学的行動や生命現象への関わりも考慮して、新たな人類の進化を要求されると、エッタンにはエクステンドセンター立ち上げの覚悟のような感情が湧いてきた。

Chapter 1 完

引き続き、第二章をお楽しみください。なお、投稿は不定期なことをご承知願います。

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