詩集

源氏物語

源氏物語はもう既に学生時代に谷崎潤一郎による訳を読破したことになっている。なっているとは、源氏物語を読みたくて仕送りの無心をしたのだが、バーや飲み屋の有り余る借金への支払いと、それを取り戻そうとしたパチンコであらかた無くなってしまったのだ。当然、読んでもいない源氏物語の素晴らしさを帰省のたびに伝えはしたが、源氏物語を知る家族には通じるものでは無かったのだ。

高校時代の同級生の八木先生が国語学の専門家で源氏物語をこよなく愛してやまなくて、退職後は地元の生徒を集めて月一度源氏物語の講義をしてくれている。僕は、時間的に合わなくて出席できないと言っているけど、本心は、大体において源氏物語を飲んでしまった失礼極まりない僕が今更源氏物語を教えてくださいとは言えない。

近頃、出産に伴う悲劇を調べているうちに、吉村悠子さんの「源氏物語」における産死‐母と子の背負う罪‐と言う論文に行きついてしまいました。

アブストラクトには、『源氏物語』における産死とは、出産が原因で産婦が死に至ることである。具体的には紫の上の母、葵の上、八の宮の北の方の死が産死である。産死は仏教的・神道的な複数の罪を抱える為に罪深い。また、産死は産婦が罪を背負うだけではなく、出生時に母を亡くした子どもにも負の面での重大な影響を与える。『源氏物語』における産死は、それ以前の作品とは産死に対する観念が変化しており、産死は母と子が背負う罪として描かれるのである。と紹介されています。

先ず冒頭、産婦が無くなる場面は「橋姫」から引用されています。登場するご夫婦は、長い間子供ができないままでいたのに突然に妊娠が分かり、これは現代でも良くあることですね。そして、美しい女の子が生まれて喜んで育児している間に二人目を授かり、これも一人出産すると次も妊娠しやすくなるのです。「今度は男の子が良いね」と言っていたところ二人目も女の子が生まれたのです。この辺りは平安時代の貴族でもどっちが生まれるかなって思いを寄せるところや、生まれたらどっちでも可愛いって思うところは今時と同じですね。

でも、今回も女の子でしたが簡単に生まれてしまったのです。経産婦ですから当然みたいに思いますね、そう、至極当然なのです。しかし、橋姫には「平らかにはしたまひながら(すごく安産だったけれど)、いといたくわづらひて(ものすごく大変な状態になって)亡せたまひぬ(亡くなってしまった)」と書かれています。この書き方だと産後直ぐに大変なことになって亡くなられたのではないかと思います。想像するに心肺虚脱型羊水塞栓症に近い状態を発症したのでしょう。この時、小説上では奥様が朦朧とした意識の中で「この子をわたしの形見に思って、可愛がってください」と言って臨終のときを迎えたと書かれていますが、二人目が安産で直ぐに生まれて良かったね、と思ったところで急にショック状態になって命に関わることがあります。産婦人科医にとっては「楽で良かったね」は禁句と言えるほど分娩に立ち会う限りこの疾患は常に頭から離れません。

この後、この子の容貌は本当に美しくて将来どうなるのだろうと思えるほどで、長女は、気立ても良く、優雅で、見た感じも振る舞いも気高くて、誰から見ても二人とも本当に良い子になると思われるので、お父さんは二人の娘の成長を楽しみに、貧乏で不運に見舞われながらも過ごしていくのです。

それにしても源氏物語の文章は、其処の風景や家の成り立ちが目に浮かぶような表現で書かれています。この吉村先生の論文を読みながら、産死(現在では産死と言う用語は産婦人科医では使いません)を中心に源氏物語を読んで見ます。

同級生の八木先生には、訳の分からないことを、って言われてしまうかも知れませんね。

何時になるか分からないけど、次回も論文の中にある源氏物語を考察してみます。

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