医者が、寄り集まって一杯やっていると、大体は、病気の話だ。若い頃、先輩の大御所の先生は、本当に物事をよく知っていた。エコーもCTもMRIもない時代だから、感心する以外の何物でもないし、実際、それで多くは解決がついていた。
先日も結核の話、結核は今でも頭の片隅に鑑別疾患として残してあるけど、僕らが若い医者の頃は、まだ、当たり前のように結核の患者に遭遇することがあった。不妊症の方からは、月経血から結核を検査しないと先に進まなかったし、実際、結核性腹膜炎の患者さんは、卵巣がんの鑑別疾患になっていた。
一緒に仕事していた大学教授を長く勤められた高名な先生は、内診しただけで、「赤堀君、結核性腹膜炎だ、準備しておけ」って、言ってきたし、手術終わって夕方居酒屋でつまみのピーナッツを、わしづかみにして、ビールをガンガン飲む先生に、「先生どうして分かったの」って聞いたら、「俺たちの時代は、卵巣がんより結核性腹膜炎の方が多かった」、そりゃ、産婦人科医には指に目があるって言ってたもの。
結核は、現在でも感染者が存在し、少しずつ減少しているものの、2021年では11519人の届け出があり、人口10万人当たり9.2人、そのうちでも70歳以上が、63.5%を占めているのが問題です。一方死亡者は1844人で人口10万人当たり、1.5人でした。今だって、産婦人科医も結核とは無縁ではありません。
結核は、僕が新人の医者の頃の昭和50年には、死亡原因の10位で、10569人が亡くなられていました。人口10万人当たり9.5人です。因みに、生まれた頃の昭和25年には、死亡原因の第1位で、121769人が亡くなり、人口10万人当たりでは146.4人でした。
ある程度のご年齢の方には、覚えている方も多いと思いますが、駅などの柱に痰壺が備えられていて、「吐くな、道路に痰唾」などと標語が添えられていたのを見たことがあるでしょう。これも日本結核予防規則の痰壺令によるものでした。日本では、明治政府になってから結核療養所が設立され、その後も数々の結核対策条例が発布されて、現在に至っています。
結核は、また、文学のテーマとして取り上げられたことも多く、作家の多くの方たちが結核で倒れたことを考えると、ある意味、結核が文化の中に取り入れられていたことも伺えます。有名な作家を挙げればきりがないですが、殆どの作家が夭折しておられ、大成したらどうだったかは推定の域さえ超えることができません。
日本で初めて、結核をモチーフにした小説は、1899年(明治32年):徳冨蘆花『不如帰』とされています。奇しくも日本での結核死亡率が記録された後、人口10万人当たりの死亡が177.5人と増加を示した年でした。その10年前には、人口10万当たり105.9人であり、この頃から、産業も隆盛を極め、人口密度も増加し、生糸産業なども盛んになり女性の社会進出に伴って女子の感染も増加しています。
結核死亡率(当時は肺病)は更に1920年(大正9年)には10万人当たり223人と増加し、都市部では300を超えることもありました。結核は、田舎でも蔓延し、当時の住空間は狭く、仕切りに乏しく、家族も多かったことが原因で、家族全員が結核ということも珍しくなかったようです。
さて、徳富蘆花の不如帰は、どのような小説だったでしょうか。何故、不如帰と題を付けたのでしょうか、血を吐いて鳴くとされる不如帰に由来したとも言われていますが、結核は、罹患期間が長かったために、文学に登場する若人の人生の儚さと、若くして命が尽きるを知る美学的要素も持ち合わせた病気として受け入れられていたのでしょうか。
小説不如帰の名前は知っていても読んだことはありません。青空文庫で読んで見ようかなと思うけど、ちょっとしんどいかな。映画を探して観た方が良いかも知らん。