栃木県の空は澄んでいた。
昭和49年の赴任以来、年齢は40歳を超えた。
この日、大学を辞して故郷の地へ戻る決意をしたのだ。
水分を失った乾いた空気の中で、星は纏った輝きを脱ぎ捨てて、ただ丸いだけの粒に見える。
星々は、地上を吹く風にも流されないで、これ以上は小さく見えないだろうと言わんばかりに小さくなって夜空に散らばっている。
医科大学の北口からケーシー型白衣の上にコートを羽織っただけで帰る。
自由な時間から解放されることのないポケットベルが、重く足幅を妨げた。
医師になり、昭和の時代の終焉までを、ここ自治医大で過ごしたことをあの椅子、この壁に残してきた。
「オイ、そこの薬師寺そばへ年越しそば食いに行くべ、婦長と病棟医長に許可もらったし、来年行けるか分らないでしょ」、
大晦日の婦人科病棟には、病状が重くて動けない者、自宅に帰るあてのない者、数名の末期がんの患者さんたちが、年末年始の特別外泊許可も得られないまま残っていた。
今年卒業して医師になったレジデントが、年末年始の当直に当たっていた。
残りし者には、天井しか視界のない世界の者には、外を吹く風の気配も分らない者には、窓の一角から見える空の模様だけが外界との接点であった者には、生と死が飛び交う人体の中で、一際大きく差し込んだ光のように思えたに違いない。
去りし者たちには、どのような人生だったかは、聞けないまま過ぎていったが、僕の記憶のファイルのなかで、若い医師の思いは、繰り返し心の谷間に木霊してやってきた。
やがて、川面に映る天空を見た時の光景が、寒風の空に繰り返し光の筋のようになって流れて見えていた。
それは、失敗と成功の激しく交じり合う世界の中で、光強き世界に立ち、美しく生きていける自覚を形作ることを抱かせた夜だった。