十七夜の空、天頂に近く月しか見えない夜、駐車場へ出てみると遠く海鳴りが聞こえて、ほのかに潮の香りが混じる空気に触れた。背後にはもう明かりの灯らない窓が月の光を写している。そのことはもう永遠に戻らない時間を照らしているようにも思えた。
かつて望みを追い、幾千キロの路程を星だけを頼りに歩いた者が永久凍土の中から見つかった。ポシェットに数個のナッツしか残されないで旅した若者は、行きつく先に何を求めてここまで来てしまったのだろうか。僕の中にある不合理性はこの永久凍土の中で発見された若者に似ている。ただひたすらに未来と大陸を求めた以外の合理性が此処にあったのかとさえ思えていた。僕の中にある不合理性は、しばしば自らを冒険へと誘う。自分は一定の思考を持って生活できないのかも知れない。
「キープゴーイング」、エレナは、後部座席でそう案内した。中古の日本車がダウンタウンからの坂道を登っている。エレナは若い頃ニューヨークでジャズを歌っていた。なんだか話す言葉も歌みたいに聞こえていた。
小高い丘をのぼる坂道の両側には枯れたススキに似た草が生えて、あたかもここしか進む道はないと教えてくれているように思えた。フロントガラスの前に現れる東海岸の景色は、日本のそれと同じだと思えていた。ただ、3日前から耳に入る言葉が違っていたのだ。
エレナには、今日からアパートで暮らすための日常用品やテレビなど電気製品を揃えるための買い物に付き合って貰ったのだ。お店を回っては、何も新しいものを買うことは無いのよ、古い物でも使えれば良いのだからと言う。
「キープゴーイング」、それは、外国に暮らしたことも、少しでも足を踏み入れたことのない、外国語もできない中年男にも、直感的に理解できる言葉だった。この先に起こる様々な変化を、まだ何も理解も体験もしていない時間であった。
目に見える風景は、すでに秋の真ん中を感じさせていた。