お産文化の記憶

お産の記憶 その2

お産と妊産婦の歴史には、底知れない闇がある。幸せは、人の作った概念であるだけに、その根底に残酷な部分をも持ち合わせている。いや、残酷なものがあるからこそ幸せ概念が生まれたのかも知れない。

此処は、半農半漁の町、昭和30年代までは、畑の中に戸板を立て掛け、錆びたトタン板を巻き付けただけの小屋で生活している家族が居た。この町には、明治時代から大正の時期までは、あるいは、昭和の時代になっても大昔からの時代の風習が、色濃く残っていたに違いない。

古老の産婆の話は、当時の悲しい背景で満ち溢れている。リプロダクションはこうしてヒトの遺伝子を紡いできたのだと分かる。

海辺の町では、板子一枚下は地獄と伝えられた海の作業の安全と、海から受ける自然災害の恐怖から、多くの生活が海の神との関わりと無縁ではなかった。お産さえも海を穢さない、海の神に障らないことに終始していた。とりわけ、急峻な山と海辺との間にある細長い土地に住んだ民には、神に障る恐れが何よりも重視されていたのだ。

此処では、人はともすれば、お産で命を失い、子は育たない事に怖れを感じたに違いない。避妊など無い時代には、妊娠し、子が生まれることは日常の中で連綿として続き、これらに伴う死を穢れとして遠ざけ、神に障らないことを受け入れて生きることが、命を繋ぎ止める手段であった。

穢れは非情を生む、非情は一度人々に受け入れられると離れることができない。昔を引き継いで生活して来た土地では、ヒトは多産であることに応じて、産むための場所が用意された家があった。特に、お産の後は穢れから、敷地の土地を踏むことができない。土地を通り、家に入る場合には、ゴザの上を歩き、直に土地、畳などを踏むことは許されなかった。

お産場所は多くは田の字型に部屋を仕切るように建てられた家の納戸や4畳半の四角な建物であり、真ん中の半畳が畳を上げられる構造である。半畳の畳をあげると、畳の下は竹で出来た簀の子になっていた。当時の建物は、全て縁の下があり、床下が見通せる構造である。産み場所の多くは北側の納戸に用意され、あるいは建てられていたため、冬には簀の子から北風が吹き上げる様だった。

大正8年に開業した産婆は、其処に藁を引き、筵や、有ればボロ切れを敷いてお産させた。古来の風習とか言い伝え、迷信を無視し、訂正させることは、若い産婆には到底敵うはずもなく、立ち会う産婆も相当な覚悟を要したのではないか。ともかく、産婦は、この部屋の真ん中の簀の子の上で産んだ。

冬には、お産とともに湯気が上がる。生まれた子は、直ぐに産婦の懐に抱かせ、体温の低下を防ぎ、産湯の準備をした。この産湯さえ子の浸かった後は、簀の子にこぼした。これは、生まれたのは、間違いなくこの家の子だと神に証明するためと、言い伝えられていたのだ。

穢れは、間違いもなく血である。現在でも妊産婦死亡の原因で最も多いのは、産科危機的出血であり、当時も産婦が命を失う原因は出血であった。血は明らかに命を奪う穢れとして迷信されたことは、想像に難くない。

さて、産後の1週間は、家のトイレは使用できないため、外に肥桶を置いて済ましていた。7日が経過した後に、やっと家のトイレが使えるのである。産後の経過として、悪露が少なくなり、血の穢れが無くなってきたことを示すのだろう。しかし、その時でさえ、家の中を通る際にはゴザの上だった。ましてや、家の座敷に入ることが出来たのは、ほぼ1か月後、女の子で31日目、男の子で33日目の宮参りを済ませた後だった。

これは、お産が無事終了し、母子ともに恙無く経過し、神に無事を報告できたことから、母児は、幸せをもたらす立場に変わったことを意味したのだろう。

医学的にも母親の妊産婦死亡(妊娠中または妊娠終了後、満42日未満に妊娠と関連した原因での死亡)はクリアされ、児の新生児死亡(生後28日未満の死亡)もクリアして、母児を囲んだ幸せな家庭生活を始められる事への証だったのではないか。

古老の産婆の記憶では、この地で産婦皆が布団の上でお産できるようになったのは、昭和10年頃のことになる。

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