お産文化の記憶

お産の記憶 その1

日本に限らず、妊娠、お産には悲しい歴史がある。それは、人類が基本的に難産という宿命を背負ってしまったからに他ならない、と、同時にお産は人の手を借り、そして最も根源的な、食べていかなければならない、生活という宿命をも持ち合わせてしまったからである。

分娩を介助しないまま、自由に生むことはできるだろうか、お産は苦しまないで気が付いたら横に赤ちゃんが居る、という風にならないだろうか、これは、産婦人科医になった時からの命題であった。

様々な、外科手術が体への負担を軽減し、疾病の根治率を上昇させ、かつて、2時間以上かかった手術が、1時間以内、早ければ30分ほどで終了し、多くの手術時の出血は献血時にいただく血液量に比べれば無視できるほどのものになった。

しかし、お産は、出産の大変さを思えば、このような医学的進歩から取り残されている。いやいや、お産は自然現象で手術とは違うからと言われても、僕たち産婦人科医、あるいは、助産師が介在している立派な医療対象であることは間違いない。

もともと、医学は、伝承、経験、発案で成り立ってきた。明らかな治療の方向性を示した成書もなく、ましてや彼の地の末端では成書に頼る医療は不可能でさえあったし、成書に書かれたことが正しいことであるのかさえ曖昧な時代が続いていた。

かつて、逆子(骨盤位)は、道付けだからと言われて、死産になることも容認されていた時代が長く続いていた。僕の先輩の大学教授さえ、最初の子は道付けって言われていたからな、と、普遍的に第一子が難産であったことを知っていた。先輩とともに、この初産からを安全に産ませるための努力を始めたのは、昭和49年であった。

話を元に戻せば、大学の勤務医だったころ、既に古老の域に達した明治時代からの産婆から、逆子の産ませ方を聞いたことがある。それは、本人独自の方法で、こうすれば逆子は簡単に生まれる、という方法だった。当時は、殆どが自宅分娩で、出産数が多く、産婆はあちこちお産に呼ばれるのだが、行った先が逆子の時には、早くに出産させて、元気に産ませなければならない、次にお産のお宅が控えていて逆子がすぐに生まれそうにない時は、道付けだから、そのまま待っていてと言って、次のお産を済ませるという時代だった。

その方法が、私どもが行う横8字型骨盤位牽出法と同じであった。この方法は、伝承でもなく窮地の中から発案された方法であった。

お産を自然にと言う考え方は、生殖行為、とりわけお産は自然現象だからという概念に基づいており、おそらく人類の歴史の中で意識の中に刷り込まれている考えである。産婦人科医も同様であるが、ただ、医療者が自然の道付けに同感せず、様々な医学的知見を集積し、安全な医療へと道を進めてきただけである。

日本での近代的医療制度への変革が始まったのは、明治になってからですが、こと、妊産婦管理としての体制作りは、昭和 17 年に、第二次世界大戦前の富国強兵施策の下で、現在の母子健康手帳のもとである、妊産婦手帳制度及び妊産婦登録制度が、世界で初めて創設され、妊娠の早期届出や、妊婦の健康管理が図られたことに始まります。

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図3

図4

図1,2,3,4,は、昭和19年の妊産婦手帳

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