ある一族、お産

ある一族、お産、1-7

さて、昭和23年は僕の産まれた年ですが、エポックメーキングな年でした。日本では保健婦助産婦看護婦法の改正により、この年より産婆は助産婦へと変更されました。この年以降、産婆学校を卒業した者は助産婦免許を取得することになり、昭和23年は、産婆から助産婦へと改正された年として記憶されるようになりました。(助産婦の名称は、2002年にさらに助産師へと変更されています)

当時まで産婆として登録されていた者は、法令発布後に再教育を受けて新たに助産師免許への変更を得ていたものと思われます(図1)。この時代から75年経過し周産期医療は様々に変化を遂げながら進んできました。この75年間の変化を知るうえで胎児管理は大きな意味を持つでしょう。

胎児管理のための診療機器の発展は、周産期診療の世界を一変させ、妊婦管理の安全性、正確性に大きく貢献してきました。妊婦管理において、最初の扉を開けたのは胎児心拍の聴取方法でした。

1970年代初頭までは、胎児心拍はトラウベという木の筒のような器具を妊婦のお腹に当てて胎児心拍を聴取していました(図2、3)。産婦人科医は白衣のポケットにトラウベを入れて回診し、入院中の妊婦さんのお腹に当てては胎児の生存を確認していました。内科医が聴診器を首にかけて診察していたのと同じですね。しかしこの聴診法は、妊婦さんと胎児心拍の状況を共有することができませんでした。今は、ドップラー法と言って胎児心拍をドプラー機序で電気信号に変えて人工音にして妊婦さんと一緒に聞くことができます。

この1970年代初頭に開発され、台頭してきた産科機器・ドプラー式胎児心音聴取器は、胎児の心臓の動きをドプラー方式で測定し、そのドプラーで得た心拍数を数値としてデジタル画面に表示し音に変換するものです。機器の処理能力により、心拍数として発生する音には違いがありますが、心拍数を観察して妊婦さんと共有するには有用で、診察する医者の能力の差異が無く、他の医師とも情報が同時に共有できることになったため、従来のトラウベ聴診器は瞬く間に消滅していったのです。でも10年ほど前までは、トラウベで聞く方が生の胎児の状況が分かって良いとトラウベ聴診を捨てがたく思っていた産科医もおりました。トラウベでの心音聴取はピンポイントで胎児心臓を捉えないとうまく聞き取れないので、産科医は丁寧に胎児の位置や大きさを外診(お腹の上から手を添えて胎児を診察する)する必要がありました、そのことが手当の感覚で妊婦との接触度を増して、胎児への愛着が形成されていったような気がします。

手当の文化は、産科診療ではドプラーの出現と後に開発された超音波断層撮影機器によって瞬く間に消えていったようにも思われます。トラウベの時代には、胎児心拍を妊婦の腹壁を通じて直接聞くことであり、その手順は先ず胎位を知ることから始まり、妊娠初期では子宮の大きさを知ることでした。このためには妊婦のお腹に手を当ててゆっくりと胎児の様子を診断し、心臓のあるべき場所を推定し腹壁にトラウベを当てて心臓の音を聞くのです。胎児の心音は直接耳に聞こえ、胎児の状態を表すとされていました。トラウベで聞く胎児心音は、心拍数だけしか測定できないと言われましたが、現在のドプラー式胎児心拍検出器も同様に胎児心拍数だけを測定する以外の用途はありません。現在では胎児心拍連続モニターにより心拍のパターン解析を行い、より高度に胎児の状況を把握することができます。

振り返ってみればトラウベで聞く胎児心拍は、胎児の元気度が直接伝わってくると思われていて、ドプラー式胎児心拍検出器が普及した後もトラウベを併用していた先輩医師たちの気持ちも理解できるようなものですね。当時、腹壁を触診し、トラウベを当て、胎児心拍数を母体の腹壁に当てた指で胎児心拍に合わせてお腹をトントンと叩いて母親にリズムを伝える作業を行っていましたが、その動作も無くなっていることにある種のノスタルジーを感じます。

トラウベの歴史は、1816年にフランス人医師により木筒型の聴診器が開発されたことに始まるとのことです。その後に内科の先生方が使う聴診器の形に進化してきたのですが、胎児心音は、このトラウベでないとうまく聞き取れないのです。

臨床の現場では使うことのなくなったトラウベですが、春になって木々が芽吹く頃に比較的大きな木の幹に耳を当てると、水を吸い上げるような音が聞こえます。子供の頃、山に居ることが好きだったので、木々の音を聞くことは春の楽しみでした。ふと、トラウベで聞いてみたらどうだろうと思ってしまいました。

図1、

図2、3

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