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人に特有な知識形成がなされない時、あるいは人の意識が否定を思い続ける時には現状を認識できず、自らの身体の変化を自然のものとして認容し、妊娠さえ気が付き難いことは明らかである。多くの動物も野生の中で、自身が妊娠したことを明らかに知る行動が得られないことは確かである。現在でさえ妊娠に気づかないまま分娩に至る者がいる。産徴の多くは他覚的所見を伴うものであるが、体の変化への自覚が妊娠であることを適切に知る手段と知識が無い場合には大きな不幸を生む。
ヒトは、2足歩行したがゆえに妊娠の経過も2足歩行に適応したものになった。すなわち骨盤は腸骨を拡大してあたかも大きなお椀型の受け皿のような形態となったし、骨盤に付属する筋群は、骨盤底筋を含め発達増大し強固なものになった。産道さえ複雑に屈曲し骨盤内の妊娠子宮と胎児が脱出しにくい構造を得た。
明治維新以後、日本は人口の急速な増加を示した。ある者は、産婆のもとで妊娠の兆候を得て妊婦となった時には既にお産の始まりであった。このお腹に違和感を知るまでは妊娠していると思いもしなかった者がいた。この頃、この地では、妊婦は陣痛が来て初めて妊娠していたことを知るか、知っていても産婆に診てもらうことさえ考えないで、茶畑で産まれてしまうことや、麦畑で産んでしまうことが当たり前の地域であった。ヒトは妊娠してさえ作業に従事し出産までを過ごす。骨盤は胎児の受け皿であり、通常に作業するのに妨げにはならないように発達した。加えて2足歩行を得た人類は、狭く、曲がった産道を得て、容易に胎児が産道内へ下降することを避けていた。腹壁が緩やかな経産婦では胎児は陣痛が発来するまでは産道へ児頭が下降することさえなかった。このことは妊婦であろうと出産直近まで通常の労働ができたことを保証していた。
哺乳類の妊娠個体は基本的に食べ物の摂取量が低下する宿命を持つ。妊娠は必然的に作業効率を低下させ、それまでに採取できていた食料を採取できない。捕食のための競争に負け捕食能力が低下するために、少量しか採れない食べ物を回数を増やして得るしかない生活から胎児を育てるには、効率的なエネルギー代謝が必要となった。体は省エネルギー体質へ変化し、少量の糖質摂取でも効率よく血糖値を増加させ胎児へと糖質が送られる。また、その後の低血糖が次のエネルギー摂取へと向かわせ、万遍なく何でも摂食し得る体質へと変化させる。
この地は、市街から遠い郡部の地域と同様に貧困が続いていた。嫁に来た娘は「妊娠すると胎児が大きくなって頭も大きくなるので難産になるから食べてはだめだ」と、食事を十分に摂らせてもらえなかった。妊婦の栄養不足は明らかだったが、食べるものさえまともに得られない家庭では、食料が一人分増えることは大きな問題であったろう。この地での妊婦では当たり前の慣習だった。つい30年前の間近な時期でさえ、嫁は豆腐だけ食べていれば良いと言われていた家庭さえあった。
古老の産婆は、少しでも妊婦の栄養にと当時はみそ汁の出汁に使った煮干しを干したものを袂に入れさせ、農作業中に時々に食べながら作業するよう促していた。幸いにこの地では余った魚は、肥料にするために捨てられるほど多量に獲れていた。妊婦の栄養が懸念され2人前食べろと言われるようになったのは、母子健康手帳の発布が始まった戦中戦後のことである。
100人生まれれば6、7人が死産の時代、リプロダクションの悲哀は人類の宿命だった。そして多くは分娩時難産でなく子宮内胎児死亡の結果としての死産を経験していた。死産した妊婦にはかける言葉も見つからないことは確かであったろう。死産の原因は梅毒などの感染症は言うに及ばず、多くは母体の低栄養も加味されていたのだろう。
戦後の一時期でさえ、最も多い死産の原因は「胎児の異常」で胎児の異常のうち,発育不良・早産がその約5割であった。羊水異常及び騰帯巻絡も多く,両者合わせて6割に達していたとされる。昭和初期においても同様であったに違いない。この死産率は、都市部と郡部では大きな隔たりがあったに違いないが、何れにせよ昭和30年を過ぎるまでは死産率が低下することは無かった。
この出産の現場で起こる稀でない死産には、母親にかける言葉は決まっていたのだ。それは、幼少時にも聞き覚えがある言葉、「この子はなずんでしまったけれど、きっとええこ(良い子)になってもどってくるで待ってるだよ」、なずんでとは本来の意味は異なるのかも知れないけれど死産した母親にはきっとそうなんだと伝わる言葉であったに違いない。
既に現在から30年以上前のことである。新生児室の前を通りかかった方が、ひ孫の顔を見に来ていた。ウインドウ越しに何人も並んだ新生児たちを見て「先生、ここにいる子らはお猿さんみたいな顔の子がいないね。変わったんかね。わたしらが産んだ頃はみんな猿みたいに皺くちゃな顔をしていたに」、確かに僕たちが産婦人科医になり始めの頃、胎盤機能不全症候群*と呼ばれた新生児がいた。
*胎盤機能不全症候群:参考までに、1965年にレビューされた記事を転載しておきます。一部は著者にて改変しています。
臨床婦人科産科 19巻4号(1965年4月10日、pp.283-289)相馬広明、他著
胎盤機能不全症候群とは、1954年Cliffordによつて提唱された予定日超過産児(以下過期産児と略す)の中に見られた特有の臨床症状を指すが、その臨床像とはこれを1期から3期までの段階に分けて観察している。すなわちまず妊娠の進行に伴い羊水の減少が起こり、そのため生下時に胎脂の減少によって皮膚の乾燥、ひびわれ、き裂、剥離、落屑などの皮膚症状が見られ、同時に胎盤機能退化による母体栄養素の供給低下により児体重の減少、皮下脂肪蓄積が減り、脱水と栄養失調が起り、そのため体型は細長となり、顔貌も老けた感じとなり、目も開いていることが多いという。また他方では酸素の供給低下による児の酸素欠乏症のため、胎児は羊水中に胎便を排出し、そのため羊水の混濁、胎盤・臍帯の黄緑染、あるいは長時間を経たものでは児の皮膚や爪に明黄色の着色が起るという。このため児の仮死や死亡率が高いといわれている。しかしSjöstedl (1958)はこれらの症状は必ずしも過期産児にのみ特有でなくて、それ以前の娩出児、早産児にも観察できることを発表し、むしろ妊娠期間と関係のない成熟異常という語を使用することを提唱している。
この時代に生き残った児は、正に劣悪な環境下で育ち生まれてきたのだ。自然と言う環境の怖さと恐れを感じていた時代だったことは容易に想像できる。
やがて、昭和10年代になると内務大臣指定の産婆学校が各地で開設され当時の近代産科学を教授し、系統的産婆学を指導し、少しずつ日本の周産期医療が進む兆しが見えてきた。
静岡県では、秋山産婆学校が静岡市に開設され3階建ての近代的施設であったとされる。