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お産は、自然の営みと称される中で時代的背景と指導的立場と称された個人達による意識的変革を被りながら現在に至っている。お産が真に人類にとって最重要で邪念なき立場を得るのは何時のことになるだろう。
明治になって、医療制度が整えられた。明治政府が、先ず整理しようとしたのは妊娠、お産に係る事項だった。当時の富国強兵を背景に、国際的な日本の立ち位置を反映したものではあるが、新政府が女性のために生殖に関わる事項を政府樹立と同時に行ったことは有意義なことであった。事実、明治維新を契機に日本の人口は急速に増大していった。この時、産婆に対し施行された最初の規制は、1867(明治元)年12月24日に発布された産婆取締規則であった。当時の産婆には資格や技術を保証する制度もなく、要は生業を助産にしていた者が産婆とされていた。
産婆取締規則の内容は次のとおりである。「近来産婆の者共(現在の産婆の方々が)、賣薬之世話又は堕胎之取扱等を致す者有之由相聞へ(薬を売ることや堕胎をする者が居るとのことは)、以之外の事に候(もっての外の事である)。元来産婆は人の生命にも相拘はる容易ならざる職業に付き(本来産婆は人の生命に関わる大事な職業であるから)、假令衆人の頼みを受け、餘義なき次第有之候共、決して右等の取扱を致す間敷筈に候(例え、人から頼まれてやむを得ない状況であっても、決して賣薬之世話又は堕胎之取扱等を行ってはならない)。以来萬一右様の所業有之ときは取糺の上(今後は、万が一賣薬之世話又は堕胎之取扱等のような行いがあった場合には、取り調べを行い)、屹度御咎め有之可心得候間為心得兼て相達候事(必ず罰を受けることを心得ていてください。このことを前もってお知らせします)」。 ( )内は著者による現代語訳
堕胎は、人が生活を得た時から影のように存在していた。人工妊娠中絶の歴史は、今の時代に比べれば法律も医学的対応も何もない時代から伝統的に行われていた。堕胎は、いつから始まり、堕胎に関与する者たちがどのように手技を得てきたのかは定かではない。ただ、妊婦の生活を維持するための手段としての背景の下に、否応なしに堕胎に関わる職業が存在していた。
古老の産婆の話では、この地に残された記憶は大正時代の視覚障害を負ったある老婆の存在である。老婆(名は秘す)は求めに応じて堕胎を行っていた。当時、闇の中の堕胎は、ほうずき(酸漿)の根が用いられていた。この酸漿根を乾燥させ、和紙を巻き付けたものを手探りで子宮に挿入する。今で言うところのブジーである。乾燥した酸漿根は、しなやかで強靭だ。やがて和紙が溶けて酸漿根が膨らみ、酸漿の成分が子宮に作用し子宮収縮を誘発するのだ。元々酸漿には子宮収縮を誘発する成分が含まれているとされる。この処置では、当然のことながら感染を誘発し、妊婦は発熱し、酸漿根の成分と子宮内感染と相まって子宮が収縮し、やがて堕胎が完遂したのだろう。しかし、当時は感染のコントロールは困難で、堕胎の事情からは医師の診察を受ける術もなく、難産や敗血症で命を落とす者も多かったと伝えられた。
この明治元年の産婆取締規則以後、政府は次々と医療制度を策定し、国民の健康維持に関与していく。
明治4年(1871年)に設立された文部省は、医制を定め、その第1条に全国の医政は之を文部省に統ふ(まとめる)とある。医制内容には、第一として医学校、第二に教員附外国教師、第三に医師、第四に薬舗附売薬が規定されている。第三の医師の項目には産婆も含まれていたため制度上は厳しいものであった。その第50条には、産婆は40歳以上で女性と小児の解剖、生理、病理について大体のことを理解していて、勤務先の産科医から、産科医とともに正常分娩を10例、難産を2例取り扱ったことの証書を提出した者を検めて免状を交付するとしている。その後、明治32年7月18日に勅令産婆規則が制定された。ここに初めて規則の中に性別の記載がなされている。
勅令第345号産婆規則第1条、産婆試験に合格し、年齢満20歳以上の女子にして産婆名簿に登録を受けたる者に非ざれば産婆の行を営むことを得ず。この時より地方に少なからず存在した男性産婆と称される者達は規制された。第2条には、産婆試験は地方長官が行うとされた。第3条、1か年以上産婆の学術を修業した者でなければ産婆試験は受けられない。第4条、試験に合格すると産婆名簿に登録する。産婆名簿は地方長官が管理するが、登録事項は内務大臣が定める。この時には、具体的な産科取り扱い症例に対する記述は無い。
更に、明治43年5月4日、の改正では、第1条として、次の資格を有し産婆名簿に受けていることを要するとされた。
一、 産婆試験に合格したる者
二、 内務大臣の指定したる学校又は講習所卒業したるもの
そして、日本における産婆制度は、時代背景に翻弄されながら第2次大戦後、助産婦と改正されるまで続くのである。