医者のぶらぶら日記

珠姫

ある時のことですが、金沢へ出かけました。金沢へは会議などで何度か訪れたことがあります。大体は、外来が終わってか午後を休診にして、東海北陸道を車で行くか特急しらさぎ号へ乗って金沢着、ホテルへチェックインして即居酒屋などへ行って、寝て起きると午前中から会議、終わったら帰るというつまらない日程ばかりでした。まぁ、金沢だけでなく何処へ行くのもこんな調子でした。外来を持っていてしかも妊婦さんがいる時はいつでも緊急対応しなければならないし、当直をお願いしている先生もそう長くはお願いできないからね。

今回は、ゆっくりと時間が取れたので、と言っても一泊二日です。憧れのグランクラスに乗って行きましたよ。

快適です。だけどグランクラスでも色んな人が居て人間観察してしまいます。見回すことはできないので近くの席の方です。詳細は書きませんが、グランクラスでは色んなお酒が飲めます。僕より随分お年の方(男性)ですが、もちろん紳士の方ですけど、お酒が好きなんですね。そりゃ僕だって嫌いじゃないからビール、ワイン、お酒と頼んでしまいましたので何も言えないと言えば何も言えませんが、その方は次から次へと飲んでしまって、それでもアテンダントの方が優しくしてくれるので進んでしまうのでしょうね。金沢への間、もう最後にしますからとお酒を二本頼んでいましたよ。人の振り見て 我が振り 直せ、ですね。

金沢へ来たら、まいもん寿司は外せないということで早々にタクシーで本店へ、流石です。ネタ札がズラーと並んでいます。もうこうなれば端からいただく。

翌日は、市内観光です。金沢には感動することがたくさんあります。また、別の機会に書いてみたいと思います。

色々巡って、珠姫の寺 天徳院へ、此処では珠姫の物語をからくり人形にして上演しています。からくり人形珠姫物語です。幸いと言うか僕たち以外に誰も観客は居なかったのでゆっくり見せてもらいました。珠姫は可哀そうにも乳母にいじめられて夫前田利常に会えないまま24歳の若さで産後衰弱死してしまったいきさつが上演されています。

産婦人科医ですから珠姫が10年の間に8人の子供を産んで衰弱死したことなど産科学的にどうだったんだろうと思ってしまいます。

珠姫は、

1613年3月9日、15才で長女・亀鶴姫を出産、初産、

1615年11月20日、17才、 長男・光高を出産、この間は1年8カ月、

1616年 出産日は不明、 18才、 次女・小媛姫を出産、

1617年4月29日、19才、 次男・利次を出産、長男光高の出産から1年5カ月、

1618年 出産日は不明、20才、 三男・利治を出産、

1619年12月15日、21才、三女・満姫を出産、次男利次の出産から1年8カ月、

1621年1月2日、23才、四女・富姫(ふうひめ)を出産、三女・満姫を出産から1年と2週間、

1622年3月3日、24才、 五女・夏姫を出産、四女・富姫を出産から1年と2カ月、

1622年7月3日、24才、 夏姫出産後4カ月、体調を崩して死去。

次女・小媛姫と三男・利治の出産は、出産日が不明で2人目と4人目の出産間隔、4人目と6人目の出産間隔を考えると、歴史学者の実際には幕府を憚って妾が生んだ子女も珠姫の実子として届けた可能性を指摘しているとの考察も正しいと思えます。そうすると珠姫は10年間で6人の出産を行い、23才、24才では富姫、夏姫をほぼ一年毎に出産しています。近代までは一生の間に10人以上出産した方もいましたが、多くは5、6人を出産しており、6人の出産は当時珍しくは無かったでしょうが、立て続けの出産で産後も大変だったのかも知れませんね。夏姫出産の4か月後に衰弱死したのは乳母のいじめが大きな原因とされています。心疾患などの内科的合併症が進行したのであればもう少し違う記述があっただろうし、出血が原因であれば産褥早期に亡くなるでしょうし、産褥熱であっても敗血症で早期に死亡するでしょうから、産後4カ月での衰弱死は、産後うつによる症状も進行していた時期だったでしょう。本来、産後の良き相談者となるべき乳母にいじめられたのでは堪ったものではありませんね。

珠姫のからくり人形を見ていてぼんやり思ったことでした。

関連記事