安井はその時も、持病の発作に襲われて、徹宵(よっぴで)ぜいぜい言って悶(もだ)えていた。細君はおちおち寝もしないで介抱していた。安井は何時(いつ)もの習慣になっている塩化アドレナリンの注射を二回も試みて、漸(やっ)といくらか眠ることができた。
「大丈夫だよ。」安井はポケットから、亜砒酸丸(あひさんがん)の小さい壜(びん)を取り出して、二粒ばかり口へ投込(ほうりこ)むと懈(だる)い体を座蒲団のうえに横たえてまじまじ天井を瞶(みつ)めていたが、胸が息ぜわしくて、目蓋(まぶた)が気懈(けだる)かった。それは先天的弱い呼吸器の故(せい)もあったが、長い間の放浪生活から来た疲労や神経衰弱も手伝っていた。結核菌がもう肺を冒しているらしい兆候も感ぜられた。
徳田秋声作「わななき」の一節です。安井は主人公です。
ある時、家の古い戸棚から1冊の薬剤名がたくさん書かれたメモを見つけました。日付は大正3年2月15日とあります。因みに大正3年は8月に第一次世界大戦の始まった年です。
表紙には薬局用薬剤極量表とあるだけで、どこの施設の物かは書かれてもいないので判然としないですが、想像するに、おそらく当時在った避病院*の薬局の物だったと思われます。中には、60種の薬剤の極量と100種類の常備薬が書かれていて、中には判読できる薬品名もありますが、殆どは辞書にも載っていないような漢字なので見ただけで調べる戦意を失ってしまいます。この時代の医療者はこの漢字と言うか薬品を理解していたのだなと感心してしまいますが、分かる薬品名のうちには亜砒酸(あひさん)があります。これはヒ素化合物のことですが、ヒ素は現在毒物指定を受けている薬品です。1回の極量、1日の極量とあるからには当時は治療薬として内服されていたのですね。そこで冒頭の徳田秋声のわななきです。安井は喘息のためアドレナリンの注射などしていましたが、亜砒酸丸も服用し、確かに結核の治療のために亜砒酸丸を服用していました。
小説そのものは、青空文庫には収載されていないけれど、興味のある方は、以下のアドレスで読むことができます。
https://www.kanazawa-museum.jp/shusei/serial/serial_15.html
余計なことですが、奇しくも「わななき」は大正3年の作でした。
これらの薬品リストの中にもう一つ分かる薬品があります。昇汞(しょうこう)です。昇汞は水銀化合物で、これも服用したのかというと驚きですが、当時は梅毒の治療に使われていました。梅毒の水銀治療はヨーロッパから伝わっています。亜砒酸も昇汞もその後この時代以降まで医学研究誌にも作用機序等の発表があったようですが、現在その記述を見ても何の参考にもなりません。
当時、結核も、梅毒も罹患数の多い疾患で人類の未来を脅かす存在でしたから、これらの毒性の高い薬品を用いてでも治療に向かわなければならない医療の現状があったのですね。毒を持って毒を制す(難病を治すのに強力な薬を用いることをいう)、医者のさじ加減などはこのような治療を背景にして作られた言葉だったのでしょう。
*避病院(ひびょういん)とは、明治時代に造られた日本の伝染病専門病院です。