医者のぶらぶら日記

産声一考

産声は人類特有の現象である。出生後の第一呼吸が起こるメカニズムについての記述は、成書を含めて数多くあるが、ヒトが産声を上げるのはなぜかという命題は未だ充分に解明されていない。まぁ、産声の機序を解明したところでどうなるものでは無いけれど。

産声すなわち第一啼泣は、ヒト以外の類人猿を含む動物では確認されていない。種によっては出生後にわずかな呼吸発声音を発することはあるようだ。

何処の成書にも書かれていないこと、産声の発生機序に関する論文も見当たらないことは、自分で考察してみることしか解決策はない。

ヒトの出産で産声が聞かれないことは、正常児では基本的に無いことである。第一呼吸が確立されれば必ず産声をあげる。従って出生後に産声が無ければ直ちに蘇生処置を行い、原因を検索し、産声をあげることを期待する。産声が聞こえなければ産婦も医者も安心できないのは確かである。

先ず、第一呼吸はいかにして起こるのか、また、なぜ安全に呼吸確立ができるのか、なぜ胎内では呼吸しないのか。第一呼吸は、胎外環境の皮膚刺激、胸郭圧迫からの解放など胎内と胎外の環境の変化が呼吸中枢に伝わり開始される。さらに胎児循環から即時に新生児循環に代わることと、胎内という低酸素状態と胎盤による酸素供給の途絶が肺呼吸への変換を促すことになる。ヒトでは長時間の児頭圧迫のストレスからの解放もメカニズムの一つとされる。動物ではヒトと違って長時間の児頭圧迫は無いため、第一呼吸は前述の環境的変化によるところが大きい。さらに、胎内では、胎盤から呼吸抑制物質が分泌されており、胎盤循環が絶たれるとこの抑制物質は直ちに消失し、呼吸を誘発するとの説もある。第一呼吸の確立は、哺乳動物では等しく同じ機序によりなされる。しかし、ヒトだけが産声を上げるのはどうして、という疑問は尽きない。

ところで、2年間の教育学部医学進学課程を終えて、医学部1年生になった時の生理学の試験でpneumotaxic centerについて記述せよって問題を出した教授が居ました。もちろん、この件は講義を受けたわけでもなかったので、医学部とはこういうところかと強い刺激を受けたことを思い出しました。

余談はともかく、第一呼吸のメカニズムについて再度考えてみました。胎内で胎児は日ごとに肺機能を成熟させていきます。それは、肺胞の発生と発育、サーファクタントという界面活性物質の分泌機能の獲得と成熟、肺内の分泌物(肺胞液、肺水)生成などが進んでいきます。胎児の肺には肺水が満たされ、基本的に肺胞の拡張は無く、羊水が流入することはありません。しかも気管の前にある声帯は胎児期には一方通行弁の機能を有しています。出生により、物理的に圧迫されていた胸郭が拡張し、腹部臓器が下方に移動すると同時に横隔膜が下がり、胸郭が拡張する。さらに肋間筋の作用によってさらに胸郭が広がり、空気が肺に吸い込まれることになる。第一呼吸の吸気圧は30~60cmH₂O(約22~44mmHg、opening pressureとも言う)である。因みに胎児血圧は30-40mmHg、羊水圧は同じく30-40㎜Hg、この吸気圧は気道内の肺胞液に打ち克って気道内に空気を入れるのに必要な圧とされる。新生児での肺水吸収のメカニズムは、吸気圧により肺胞を圧して肺水を押し込む、胸腔内圧が陰性となり肺水を間質腔へ引き込む、肺血流増加により、浸透圧の高い血液に吸収される、やがて呼吸運動に伴って流体静力学的圧の低いリンパへの流れが生じ、吸収される。いずれにせよ、胎児から新生児へ移行したことで呼吸が確立され、生を得ていくのである。

こうして吸気により肺胞をいっぱいに広げた肺は、今度は一挙に呼気が生じることになる。この時、緩やかに閉じていた声帯は、一挙に肺胞内の空気が排出されて肺胞が萎まないよう、ある程度の圧を保つために少しだけ開きながら肺胞内の圧を下げていく。この少し開いた声帯が音を発するのである。呼吸は哺乳動物全般に共通的機序で支配されている。すなわち、ヒトも類人猿を含む哺乳動物も全てが、第一呼吸の確立をもって新しい誕生となる。これらの中でヒトだけが産声を上げる。この事は、解剖学的構造の問題として理解するのが良い。

さて、ここからが産声のメカニズムという大切な命題に挑むことになる。産声は、全てヒトが2足歩行を始めたことにそのルーツを持つ。比較動物学によれば、ヒトは2足歩行により、全ての臓器が重力方向へ偏位した。それに伴い、骨格が変化し、他の哺乳動物に比べて喉頭も低位となり、それにつれて声帯も低位置になった。このために、咽頭腔は拡大され、かつ鼻腔と咽頭腔の角度が直角となり、咽頭腔までの距離も長くなった。類人猿を含む哺乳動物はこの角度は直線的で喉頭の位置も高く、咽頭腔は狭い。さらに、鼻咽頭から咽頭腔までの距離も明らかに短い。類人猿を含む哺乳動物のこういった構造は、音を共鳴させ増幅する機能を持たない。ヒトでは2足歩行により、喉頭が低下し咽頭腔の拡大が生じ、さらに喉頭蓋も低下したため、舌の動きの自由度さえ増加した。

ヒトは、大きな咽頭腔を確保したことで音を共鳴させ増幅させる機能を獲得し、その後の言語獲得へとつながった。この鼻腔、舌を含む口腔、咽頭、喉頭の解剖学的変異はヒトの構音器官としての機能を進歩させ、舌の動きと喉頭を支える筋肉群の発達を伴って、母音子音を含む多様な発語発声機能をヒトに与えたのである。これが人の産声につながる機序と考えられる。すなわち、声帯で発生した音は、咽頭腔で共鳴増幅され、舌の動きと喉頭周囲の筋肉の絶妙な動きで、産声を発する時点から母音子音を交えた発音となり、共鳴によりさらに大きな発声となるのである。

因みに、他の動物はこの解剖学的機能が無いために音を共鳴増幅できない。しかも発声時には動物種によって発声(鳴き声)は異なり、強弱はあるが、その音は基本的に筒を吹いたような一定の音でしかない。

2足歩行となったヒトは、こうして産声を得たのである。

2023年9月15日

参考資料

1)新生児 これだけ知ってれば大丈夫 高松赤十字病院 小児科 幸山洋子講演資料

2)人類進化の負の遺産 新潟医療福祉大学 奈良貴史著

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