今朝もそれほど暑くないし、そよ風も吹いている。高齢者は汗かく機能も保たないといけないから出かけよう。今日もウオーキング日和だ。
いつものコースに風を感じながら歩く。決まったコースを歩くことは、時間と歩数がある程度計算できることが良い。あの角まで歩いたら5000歩、あのお店まで歩いたら7000歩、あそこの交差点まで歩いたら1万歩って分る。
さて、今日も道端の花を見つけながら歩きました。通りのお宅には、庭に、プランターにと色とりどりのお花が咲いていて、暑い中お手入れも大変だろうなって思いますが、雑草の中の花たちは気づいてあげないと、眼に入らないまま通り過ぎてしまいます。
下ばかり見て歩いているようですが、濃い目のサングラスかけて鍔のある帽子をかぶっているとやはり下ばかり見ることになりますね。
今日は、たまたまなのか今まで気が付かなかったのか、里芋の葉に朝露が残っていました。
子供の頃、里芋の葉の朝露を集めて墨を擦ると、習字が上手になると言われて、起きたらすぐに芋の葉の露を集めました。きっと、子供の頃お習字を習っていた高齢の方たちは、朝露を集めた記憶を持つ方も多いでしょう。
あの頃は、大体のお宅が何かしらの野菜を自宅の庭に植えていて、里芋も当然植えられていたので朝露を集めることができたでしょうが、今は、他所のお宅の畑へ入り込まないと朝露を集めることができません。第一、今の子供たちが、朝露で墨を擦ると字が上手になるなんてことを信ずるはずがありません。
里芋の葉の露、朝露などは、きっと俳句の季語として、多く詠まれているだろうことは容易に想像がつきますね。この里芋の葉のみずみずしさと朝露のきらめきは、本当に気持ち良い朝を感じさせますし、気分が落ち込むなんてことは決して無いでしょう。
そこで、調べてみました。矢張り、数多く芋の露を詠まれた作品がありますが、代表的には、飯田蛇笏作「芋の露連山影を正しうす」が出てきます。
遠い昔の澄んだ空気感が漂ってきます。果たして、芋の露の中に連山が映り込むのを見ることは難しいのかも知れませんが、芋の露が載っている葉の向こうに、同じような澄んだ空気の中に、連山が重なって見えることは、現在も山梨県の山辺の畑に立つと同様な感覚にとらわれてしまいます。
さて、今朝の朝露は、若い里芋の葉に載って宝石のように輝いています。清々しいなぁと思うと同時に、活字を拡大して読む半球型ルーペのように露の下の葉脈が拡大されて見えてしまうのは、仕方がないかな。