Chapter 2 ターシタンとノルコン その1
都市は、日本の政策で人口集積拠点化がなされた後、それらの都市間は地上での交通はやがて失われ、日本の国土の大部分は人の住まない地域になった。居住地区以外は、むしろ原生林化していった。世界的にも人口減に伴い、地球は炭酸ガスの排出量が減少し、緑地の増加で成層圏内のガスのバランスも整い、炭酸ガス過剰問題も今や過去のものになりつつあった。
ターシタンは、いつものルーティンで目の前に果てしなく広がる樹林帯を眺めながら、昼のワインを飲んでいた。秋が過ぎようとして空は高く、ほほに当たる柔らかな風にほのかな花の香りが漂っている。
「海か」、潮の香りのようなワインの芳香に風の運んでくる匂いが混じってグラスの中を占めている。眼下一面に見える緑の先の海までは途方もない距離で誰も海に行こうなど考えたことも無い。第一、イーヴィートルは海に飛行のための座標を持っていない。ターシタンは、風が薄く運んでくる花の香りと、遠く波立っているのだろうか、海を表現した香りにふと眠気を感じて足元の布を引き上げた。地中海を感じるワインは、こんな昼下がりの隠居生活にはもってこいのワインだな。
思えば、淡々と日々を積み上げてきただけの人生だったな、人類の希望、暖かな人の群れの生活、このためだけに今までの生活を捧げてきたことだった。いまや本来の医者の仕事は無くなってきてしまったし、もう、お腹に手を添えて診ることも無くなった。大体、手当なんて言葉は医療辞典からも削除されて久しい。そりゃ、全ての診断はAIとやらの自動診断で済んでしまうし、お産だってもう人の手は要らなくなってしまった。昼から飲むしかないよと、それでも今の時間を楽しんでいる。
「おーい、ノルコン」、そういって呼んでみたけど、ターシタンのいる場所は自分の時間を過ごしたいからと言って自動音声認識装置と室内生体物質検出装置を設置してない。いくら声を出したところで誰も反応はしてくれない。少しの肌寒さは、かえって眠気を誘う、ノルコンだって「そんなことしていたら風邪ひくでしょう」なんて心配して言ってくれたのは、もう記憶が消えそうなくらい前のことだ。
「い、か、い」、夢の中かも知れないが、遠く風に乗って聞こえてきた。「言葉?」ワインで麻痺した耳にも確かに聞こえた。その前後も意味も全く分からないが、確かに「言葉」に聞こえた。長い時間を寝てしまったようで、かすんだ意識の中で見上げている星は、ちっとも変わらないなぁと幼き自分を夜空に投影していた。
その昔、この地域はお茶の生産が盛んだった。広大な地域にはお茶の木が整然と植えられていたことが、古文書に残されている。今では放置されたお茶の木々が巨木化し、様々に木の根や幹が重なり合い、地域を隔絶するようにバリアーとなった密林は人の侵入を頑なに拒んでいた。この原生林化した地域は、明らかに現在の人類が住む地域とは隔絶されていた。ターシタンさえ子供の頃にそこへは近付かないことを強く教えられていた。その地に足を踏み入れようとすることは、その先にあるテーブルマウンテン状になった切り立った崖を降りて、誰も行ったことのない樹林帯の中へ進まなければならないことを意味していた。
あの日、かすかに聞こえた言葉に似た音は、明らかに自然が発したものではない。ターシタンは、小さな頃からずっと思っていたこと、あの原生林化した樹林帯の向こうに何があるのか確認したくなっていた。
翌日のこと、「ノルコン、僕はちょっとウオーキングに行ってくる」。「そうね、今日は天気も良いし、風も無いからウオーキング日和だね、あたしはすることあるから出かけるけど、お昼は適当に食べてね」。近所にラメタコーヒーがあって、ランチは大体そこで食べる。そこには朝からずっと何かしながら一杯のコーヒーをすすり、時間を過ごしている同輩が何人かいる。時々小さな袋を開けて何か飲む。自分もその一人だなと自嘲の意味を込めて同輩たちをラメタ人と呼んでいた。
木立は奥に向かって少しずつ密度を増して、そよぐ風の音さえ聞こえなくなっていた。どこまでが崖の端になるのかはこのままでは分からないが、進むにつれて木々は根元が巨木化して重なり合い、これだけでこの先とは完全に往来できないことは確かである。もう何時間歩いたのか、どれだけ歩いたのかふと気になったが、年齢の為か気持ちが先走るためか、いつもなら持っている携帯電話を持たないで出てきてしまった。
突然、視野に黄金色に光った球体が走るのが見えて、体が軽く持ち上げられる感覚が襲ってきた。やがて目の前には白い空間が広がって、あたかも異世界へ身体ごと吸い込まれる予感が襲ってきた。「脳梗塞か」薄れゆく意識の中で、一瞬今の自分を診断していたが、もう充分に生きたと思ったところで白い光の中へ倒れていった。